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 私を愛してくれているひとに、知らない私がいてもいいと思う。私が愛しているひとに、秘密があってもいいと思う。私が苦手とするものを、相手が好んでいてもいいと思う。
 ――愛とはね、もともと自己と他者を同一化しようとする心のはたらきのことらしいよ。
 昔、分厚い本を読みながら、有栖川が言っていた言葉を思い出す。特に興味を持たなかった私は、「ふうん、そうなんだ」とかなんとか、適当な相槌(あいづち)を打つだけに終わったような気がする。
 自己と他者を同一化しようとする心のはたらき。
 自己と他者を同一化するとは、どんな方法を用いるのだろう。自己と他者の同一化はどんなふうに為されるのか。また、それは本当に可能なのか。そして、同一化された自己と他者――同一化されているわけだから、この時点で『自己』も『他者』もなくなっているのだが――はどうなってしまうのだろう。自己と他者を同一化しようとする心のはたらきイコール愛、その終着点はどんなところなのだろう。
 もしも本当に愛がそのようなものなら、私は愛などなくていいと思う。
 個はどこまでいっても個である方がいい。個が個として存在しているからこそ、苦悩や憎悪があり、慈悲や思い遣りがあり、生が世界で生かされ、生が世界を動かしていく。
 だから、個が個として生きるのをやめることが愛だとするなら、そんな愛はなくていい。少なくとも、私はいらない。愛の中に在れないことが、たとえどんなに孤独でも。
「――ああ」
 そう、か。
 私は諒解(りょうかい)した。
 有栖川の長い(まつげ)、ゆったりとした寂しい(まばた)き、彼の嘆きや祈りや苦しみを思い出して、諒解した。
 だから、ひとは誰も、生まれてから死ぬまでずっと天涯孤独なままなのだ。どんなに愛するひとがいても、愛してくれるひとがいても。
 個であるから、個であり続けるから、個を放棄することをしないから、同一化が叶わないから、誰もが天涯孤独のままなのだ。
 こんなにも愛しているのに。
 こんなにも愛されているのに。
 こんなにも愛せるのに。
 こんなにも愛されていたのに。
 それでも孤独なのは、寂しさから(のが)れられないのは、誰とも溶け合っていない、溶け合えないからなのだ。自己と他者の境界線に、痛いほどはっきりと壁が作られているからなのだ。
 私は諒解して、
 ――諒解して、
 泣きたくなった。
「泣きそうな顔してる。どうしたのかな、泣き虫さんは」
「は? あっ、うわっ」
 完璧に虚をつかれた私は、思いきり変な声を出した。
 で、
「あっありすがっ」
「ぅぐっ」
 ごん!
 私の石頭は、見事有栖川の下顎にヒットした。クリーン・ヒット。百点満点。大喜利(おおぎり)なら座布団二枚くらい軽くいける。
「っくぅぅううう〜」
「い……いった……」
 頭を抱えて丸くなる私。下顎を擦りながらよろめく有栖川。
「な、なんっ……」
「いや、……うん」
 ずれた眼鏡を直しながら、有栖川は力なく笑った。
「確かにここは僕の家には違いないんだけど……そうだよね、今は彼方が主人としてここで暮らしているんだから、いくら鍵を持ってるからといって無断で入ってきたのはいけなかった。不躾(ぶしつけ)だったね。ごめん。大丈夫?」
 言いながら、有栖川が私を見た。
 うわ。
 うわ。
 うわあ。
 有栖川は手を伸ばし、私の頭にそっと乗せた。よしよしとやさしく撫でてくれる。
 うわああ。
「彼方? どうしたの、そんなに痛かった?」
 心配そうに私を見つめる有栖川。
 有栖川。
 有栖川だ。
「有栖川」
「うん」
「ほ、本物?」
 情けないほど力のない、よろよろ声で私は尋ねた。有栖川はにこりと笑って、私の頭を再度撫でる。そして、反対側のてのひらを私のそれにそっと重ね合わせた。
「本物だよ。ちゃんと触れる」
 いつもと変わらない、昔からずっと知っている穏やかな調子で、有栖川は微笑んだ。
 私は自身の頭を抱えるのをやめて、有栖川のてのひらをほんの少し名残惜しく思いながらも彼の手を避けて、そろそろと手を伸ばした。有栖川の頬に指先で触れ、恐る恐る両手で包んでみる。私のてのひらが熱いのか、有栖川の頬が熱いのかわからない。
 やっと高くなった太陽の光を取り入れはじめた部屋はまだ夜の涼しさが残っていて、風が吹き抜けるように設計されている部屋はまだ少し薄暗くて、夏も暑さも幻みたいに遠い。
 蝉が鳴きはじめる。
 一日がはじまる。
 待ち侘びた瞬間。
 濃い影の中で、私はやっとこれだけ言った。
「おかえり、有栖川」
「ただいま、彼方」
 有栖川が笑う。
 ああ、今までずっと見てきた有栖川だ。
 有栖川の家で微笑む有栖川という情景がとても懐かしくて、なんだかとても感激してしまった。ここはやっぱり有栖川の家なのだ。誰が住んでも、彼が欠けていたら成り立たない。
 この家にいちばん必要なのは、有栖川だ。たからやっぱり、この家の主人は、間違いなく有栖川だ。
「いつ帰ってきたの? 連絡もなしで……」
 有栖川の頬から両手を外しながら尋ねる。
 ――有栖川に触れられる。
 近くにいる。
 たったそれだけのことに、私の胸はいっぱいになった。いっぱいになって、溢れ出そうだった。溢れてしまうと涙になるので、必死で(こら)える。
 ――なんだか、変わった。
 どこが、とか、どういうふうに、と明確には言い表せないけれど、何か決定的なものが変化したように思えた。それが有栖川自身のことなのか、それとも有栖川に映った私のことなのか、それともただの気のせいなのか。わからなかったけれど、私ははっきりと何かの変化を感じ取った。なんだろう。
 有栖川は、肩にかけていた大きめの鞄の紐を外して荷物を下ろすと、ファスナーを開き、中を探り出した。
「たまには僕が彼方を驚かせてみようと思って。いつも驚かされっ放しだから」
 悪戯(いたずら)っぽく言う。
 私は不服の表情をとった。
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