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「私、有栖川を驚かせたことなんてないよ。いつも驚かされてるのは有栖川じゃなくて私だよ」
「いや、彼方はもうそこに存在しているだけで脅威だから」
「何それっ」
 脅威って何よ、と私は足を伸ばしてつま先で有栖川を蹴った。有栖川は笑う。
「彼方、今日はどうする?」
「ん? どうするって、何が」
「今回は泊まっていこうと思っているんだけど」
 有栖川は鞄の中から小さな紙包みを取り出した。
「いいかな?」
「いいかなって――いいも何も、ここは有栖川の家だよ。私は借りてるだけなんだから、勿論いいに決まってる。うれしい」
「そう? よかった」
 有栖川は立ち上がると、紙包みを持ったまま、居間の方へと歩いていった。ややもせず戻ってくる。紙包みは持っていなかった。
「さっき持ってたの、何?」
「秘密。夕食はどうしようか」
 あっさりと私の質問を流し、有栖川がこちらを向く。
 (すみ)を流したような黒い髪。触るとさらさらしていて、やわらかい。通った鼻梁(びりょう)はやっぱり綺麗だ。そして。
 そして、星の散らばる冬の空みたいな双眸(そうぼう)
 静かなひと。
 なんて美しい。
 音のないひと。
「私がご馳走(ちそう)作ってあげる! お料理の腕が上達したところ、見てよ。ちゃんと包丁も使えるようになったし、フライパンだって上手く扱えるようになったよ」
 有栖川は声を立てて笑った。
 少しの(かげ)りもなかった。
「じゃあ、今日は彼方のご馳走に期待しよう。朝食はもうすんだ?」
「うん」
「今日は何か予定がある?」
「ううん」
「よし。じゃあ、散歩にでもいこう。昼食は僕が作ってあげるよ。公園に行きたいから少し遠回りになるけど、ついでに食料調達もしてこようか」
 私は素直に(うなず)いた。
 久しぶりの有栖川とのお散歩。
 うれしい。
 感情はそのまま私の表情に出た。私は知らずにっこりと笑ってしまう。その私を見て、有栖川も微笑んだ。
 ――やっぱり。
 有栖川は、今までの有栖川と違う。
 違う――というのだろうか。ぴたりと()()まる言葉が見つからない。
 なんだか、乾いてひび割れていた皮が一枚()がれたようだった。外側ではなく、内側の皮が。そして、皮が剥がれたそこはまるで生まれたてのように健康で美しく、有栖川を内部から静かに光らせているようだった。
「行こうか」
 伸ばされた手を取る。有栖川の手は指が長くて、爪なんてまるで磨いた珊瑚(さんご)みたいに綺麗だ。
 立ち上がると、さらに身長差が広がったような気がした。
「有栖川、背、伸びた?」
「身長? いや、もう伸びてない筈だけど」
「そう――なんだ。さっき、有栖川をすごく大きく感じた」
 有栖川は笑った。
「ずいぶんと長いこと会っていなかったからね」
 その言葉はするりと私の中に入ってきた。
 そうか、そうだ、確かにずいぶんと長いこと会っていなかった。この世に生まれ落ちて、二歳のときから誰よりも近く、ときに親や姉妹よりも近くで共に生き、成長してきたけれど、この年齢になってはじめて、今ままでのどんなときよりも私たちは離れている。有栖川の身長を正しく認識できなくなっていたほどに。
 そう思うと、有栖川と離れている距離と時間の遠さ、長さ、蓄積されていく各々異なる生活を強く感じた。反対に、今までどんなにお互いが近くいたのかということも知った。
 私には、有栖川が知らない友人がいる。有栖川にも、私が知らない友人がいるだろう。私は常に私の世界で暮らす私であり、有栖川は常に有栖川の世界で暮らす有栖川だ。絶対的にそうだ。けれど、お互いに、お互いの知らない世界で生きるお互いの存在があることを知りながら、私たちはどちらもその世界を(おか)そうとはしていなかった。
 きっとこれが、個として存在するということ。
 自分が知らない世界を、決して入ってはいけない世界を相手が持っていると認識できるのに、自己がそれをすべて己のものにすることは叶わないのだと私も有栖川も知っていた。どんなに大好きでも、どんなに愛していても。一見哀しそうに感じられるそれこそが、実は自己が自己として存在するのにもっとも大切なことなのだろう。
 有栖川を愛しているかと問われれば、私はなんの躊躇(ちゅうちょ)もなくイエスと言える。では有栖川と同一化されたいかと問われれば、これは絶対にノーと答える。私は私として存在しているからこそ、有栖川を愛する私が存在し得るのだ。
 財布とハンカチだけが入った、おもちゃみたいに軽いバッグを持って、私たちは外に出た。
 太陽はもうずいぶん高いところで存在を誇示していた。強い光線をぎらぎらと、植物に、人工物に、ひとに、動物に突き刺している。ただ、乾燥しているのはありがたかった。ここ数日雨の降らない日が続いたので、湿度はそんなに高くない。それだけでも充分楽になる。太陽が元気で湿度も高いなんて、それこそ自分がアイスクリームみたいに溶けてしまう。私は比較的暑さには強い方なので夏は結構元気に乗りきれるのだけれど、過ごしやすいに越したことはない。
「あー。今日も暑いなあ」
「そうだね。でもここはまだいいよ。木が多いから」
 靴の(かかと)を直しながら有栖川が言う。
「東京はアスファルトの照り返しがきつくてね」
 暑さにも色々種類があるんだよ、と言った。
 隣に有栖川が来るのを待つ。有栖川が横に来ると、私は自然に手を出した。彼も自然に手を握った。私たちの中で、手を繋ぐという行為は挨拶みたいなものだった。何気ない、とるに足らないことのように思えるけれど、ほんとうはとても大切な行為。
 有栖川のてのひらは大きかった。
 きっとこれも、私の記憶の中の有栖川と、実物の有栖川に差があるせいだ。
「有栖川ってこんな手だったっけ」
「彼方は相変わらず小さいね」
「こんな手だったかなあ。私、小さい頃の記憶が強すぎるみたい。自分と有栖川の手の差なんてないも同然だと思ってたのに。全然違うね」
 うん、違うね、全然、と言って、有栖川は歩き出した。私も慌てて歩いて、有栖川の隣に並ぶ。
 有栖川の横顔を見上げた。
 変わっている――だろうか。
「ねえ」
「ん?」
「……有栖川、ちょっと変わったね」
 私はなるべく平静を装って言った。有栖川と繋がっている手が、少し緊張する。私は真っ直ぐに有栖川を見ていられず、どこを見たらいいのかもわからなくなって(うつむ)いた。
 しばらく、有栖川は何も言わなかった。
 夏の太陽に焼かれながら、手を繋いでゆっくり歩く。緑が濃い。蝉がじゃんじゃん鳴いている。足もとの短い影は色濃く、私は帽子を被ってこなかったことを後悔した。一度ぎゅっと目を(つむ)って再び開くと、あまりの明るさに眩暈がしそうになる。
 夏は暑くて、熱くて、すべてを浄化してしまおうというように太陽が容赦ない。
 世界は明るい。景色は目が痛くなるくらいのハイ・コントラストだ。
「彼方が」
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