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 ようやく、有栖川が口を開いた。私は彼の横顔を見上げる。
「――僕も、色々考えたんだよ。一年目の春先に彼方が東京に来て、僕の家に住まわせてくれって言って――」
 ふう、と息をついた。
「このままじゃいけないと思う、っていう彼方には、参ったよ」
「参った?」
 怪訝(けげん)そうに訊くと、有栖川は頷いた。
「彼方が、どうにかして、なんとかして、目に見える触れられる何かをもって大人――大人、っていう表現でいいのかな。大人になろうとしていて、このままじゃ弱すぎる、もっと強くならなきゃ、って言って、僕の家に一人暮らしをすることでそれを叶えようとしてる。目的を持って、その目的を達成させるために新しいことをはじめようとしていた彼方を見て、背中を思いっきり叩かれたような気がした」
 喋りながら、私と有栖川は陽に照らされて熱くなっている、公園をぐるりと一周している白い散歩道を歩いていった。さすがにこんな日中、暑い時間に犬の散歩をしたり、赤ちゃんを連れて歩くひとはいないらしく、公園は静かだ。
 芝生がきらきらと輝いている。大きな木が、風にざわめく。(まぶ)しい。夏の光景。(まぶた)に焼きつけられるのがわかる。強烈な光が瞳に刺さる。
「僕も、このままじゃ駄目だと思ったよ。――高校三年のとき、彼方は僕の子どもを産んでくれるって言ったよね」
「うん、言った」
「僕はそれを信じた」
「私も本気だった」
「うん。僕の子どもを産む気だ、本気だって言われて、ものすごく強い衝撃を受けた」
 心の片隅で、冗談だと思っていたの?
 尋ねると、いや、それは違うよ、と有栖川は否定した。
 私たちは木陰に入った。眩しさにくらんでいた目が、やっと休憩できる、というみたいに瞼の奥が少し痛んだ。
 小さな池がある。桜の大木が、池に傘を差しかけるように太い枝を伸ばしている。そこは、身体や生活のすべてが離れたいちばん最初の春、私と柘植(つげ)くんが出会い、一緒に有栖川を想った場所だった。
 つんと軽く有栖川の手を引く。ベンチに座るよう促すと、有栖川は表情で誘いに応じてくれた。私の隣に腰を下ろす。――いつもみたいに、肩が触れ合うくらいに近く、でも少し離れて。
「僕はどのときも本気だったよ。彼方が、子どもを産んであげるって言ってくれたとき、きっとそれは軽々しく言ってはいけないほど大切で、重い決心だとわかっていたのに、その一方で嬉しかった。――少し違うな。嬉しい、というよりは――」
 なんとなく、わかってしまった。
「どう言ったらいいのかわからないけれど、でもとにかく、僕は彼方のその言葉に、とても貴重な安堵感(あんどかん)みたいなものを覚えた。本当にそうなったらどんなにいいだろうと思った。自分でも信じられなかったよ。僕は自分の大切なひとを失うのが怖い。誰だってそうだろうけれど、多くの場合、毎日毎秒それを感じるひとは少ないんだろうと思う。でも僕はその少数派のひとりだ。いつもいつも、彼方が死んでしまったら、と不安に思う」
「うん」
「おかしいだろう? それなのに、子どもが欲しかったんだ。彼方が産んでくれる子どもが欲しいと思った。それは、家族というもの……だよね」
「うん。そうだよ」
「大切なものが増えるのは、僕にとっては手械(てかせ)足枷(あしかせ)に繋がれて刑の執行を待つのと同じだ。それなのに僕は、彼方を、彼方の子どもを望んだんだよ。無条件に。未来が見えた気がした。勿論それは僕の希望的観測、夢想だったろうけれど、でも、とても鮮やかに見えた気がしたんだ。未来なんてないってわかっているのに」
「……うん」
 私は、有栖川のお母さんが言っていたことを思い出していた。
 ――何かがそう定めているんだわって思った。あのときの想いを、感覚をなんて言い表したらいいのかわからない。
 ――確かに見えたんだもの。
 未来なんて本当はどこにもないのに。
 そんな時間、どこにもない。
 それでもひとは、誰もがその時間を夢見て目指して生きていく。
「僕は一瞬、僕に家族が――じいさんはいないけれど、忘れてもいないけれど、じいさんの存在や存在していた証みたいなもの、そういうものを肯定しながら、新しいものを創り出していく場所が出来たように感じた。彼方はいつも僕やじいさんを家族だって言ってくれていたけど、僕には上手くそれを受け止めることが長い間ずっとできずにいた。なのにあの瞬間、彼方が、僕の子どもを産んでくれるって言った瞬間、家族が出来たと思ったんだ」
 家族が。
 出来たと。
 有栖川の滑らかな曲線の頬を、涙がすうと伝った。私はそっと彼の両手を取り、てのひらの中に包んだ。
 有栖川は静かに目を閉じた。新しい涙がまた一筋、有栖川の頬を伝い落ちていく。
「――生まれてこられて、よかった……」
「うん」
「僕は、幸せだ……」
「――うん」
 生まれてこられて、よかった。
 ――生まれてこられて。
 ああ。
 なんていう言葉だろう。なんて大切な想いだろう。
 失うことを何より怖れる有栖川が、こんな肯定をするなんて。
 大切なひとの死に対する恐怖と不安にいつも抱かれている有栖川が、生に感謝するなんて。
 私がいる。私の隣に有栖川がいる。生まれて、生きてきた有栖川がいる。
 私はそっと、有栖川の唇の端に、(かす)めるようなキスをした。
 有栖川は少し驚いて私を見つめた。
「今のは……」
「有栖川を大好きなひとがいるの。そのひとが、有栖川が困るようなことがあったら、このキスを渡してって――ずっと預かってたの」
 有栖川は少しの間何かを考えているかのようにじっと動かずにいた。てのひらの中の有栖川の両手に、私の体温が移っていく。
 涙は有栖川の頬を伝い、音もなく地に落ちた。
 それは、とても美しい光景だった。晴れた日の池に桜が花びらを散らすような、ひっそりとした美しさ。
 時間が静かに流れていく。風が吹いて、蝉の声は大きい。それでも木陰は涼しくて、幾重にも重なる葉影に薄まった私たちの影が落ちていて――静かな、美しい風景画だった。
「彼方」
 有栖川が、そっと私を呼んだ。とても丁寧な発音だった。これ以上はないというほど大切そうに、愛おしそうに私の名前を呼んだ。
 ――彼方。
「……うん」
 有栖川が泣いている。
 とても静かに。
 音のないひと。
「どう――言ったら……僕はやっぱり、彼方に対する気持ちを言葉にすることができないみたいだ。言葉なんて真意の近似値みたいなものなんだから、単純でいいと思ったばかりなのに」
「うん」
 涙が(こぼ)れる。
 長い繊細な睫を濡らし、瞬きと共に弾けて頬に落ちる。
「彼方」
「うん」
「僕の子どもを、産んで」
「うん」
「僕と、ずっと一緒にいて」
「うん」
 ――なんて、きれい……
 静謐(せいひつ)の涙を落とす有栖川の姿は、とても美しかった。そっと濡れた頬に触れる。有栖川の片手が、応えるように私の頬を包んだ。そこではじめて、私も泣いていたことに気がつく。
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