back  |  next   
 ――有栖川から溢れてるんだ。
 彼自身から零れる涙では追いつかないのだ。だから、私の目から彼の涙が零れ落ちる。
「大丈夫」
 声が震えた。けれど精一杯で、私は言葉を続ける。
「私は絶対、有栖川の隣を諦めたりしないから。ずっと一緒にいる」
 どうか、叶えさせて。
 どうか、届いて。
 私を永遠の一粒にさせて。
「どんなひとも生まれて死ぬまで天涯孤独でも、私は絶対に有栖川をひとりぼっちにはさせないから。寂しいものからも哀しいことからも、私が絶対守ってあげる。だから」
 涙が止まらない。
 有栖川のてのひらがあたたかい。
 生きてくれている。
 一生懸命で見上げると、星の散らばる冬の空の瞳と会った。やさしい色。深くて哀しい、やさしい色。
「だから、有栖川。……自分からひとりぼっちにならないで。私を忘れないで。ずっと一緒にいるの。絶対忘れないで」
 私の瞳から、ぼろぼろと涙が溢れた。心がいっぱいで間に合わない。
 有栖川にそっと引き寄せられる。有栖川の唇が私の頬に触れて、涙を拭ってくれた。
 どうか。
 どうか。
 私の祈りはすべて涙となって零れ落ちた。(ほど)けてしまった私の手に緩く触れてくれる有栖川の指先は、とてもやさしかった。
 私は瞼を閉じている。閉じていても、涙はやっぱり止まらない。その胸の内で、問う。誰にか、問う。
 これは、永遠ですか?



 昼食は有栖川がオムライスを作ってくれた。卵の半熟加減がなんともいえない実に美味な一品だった。私は少し後悔した。何故、夕食を作るなどと言ってしまったのか。有栖川に任せればよかった。そうしたら、きっと頬も舌もとろけるほどの美味しいディナーに、デザートまでついて完璧だった筈だ。
 ――少しどころじゃない、私はとても後悔した。深く深く後悔した。それでも「ご馳走を作ってあげる」と言った手前――「料理の腕が上がった」と言ってしまった手前、後には退けない。私ははりきった。有栖川のごはん食べたかった……と嘆く空きっ腹を抱えて、私は見事な豆腐サラダを作った。
「健康にはいいね」
 ……やっぱり有栖川に作ってもらえばよかった。
 そうして私たちは、子どもの頃そうしていたように、昔のことを思い出してみたり、近況を報告してみたりした。
 私の知らない有栖川がたくさんいた。有栖川が知らない私をたくさん伝えた。私たちは普遍的なものでは決してなかった。それでも、まるでここにいるのが、ここに共に在ることが、生まれる前から決まっていた必然のように私たちは自然だった。おじいさんが遺した家に微笑む有栖川がいて、健康の(かたまり)みたいな私がいて、擦り切れててらてらと輝く床板があって、色褪(いろあ)せた畳があって――そんなものすべてが、私たちを肯定していた。私たちも、私たちを肯定していた。
 生きている。
 変わっていく。
 いつか死ぬ。
 私たちはその中にいた。そして不思議なほどに、私と有栖川は隣り合っていた。
 月だけが降る和室は蒼い。水底に沈んだように蒼く、静かだ。向かい合った有栖川と視線がぶつかる。悪戯をしかけようとしている子どもみたいに、くすくす笑い合った。
 くすぐるようにお互いの(ぼたん)を外すとき、有栖川はやっぱり第二釦から外しはじめた。それが可笑しかった。
 有栖川の眼鏡を取る。横に長い銀縁の眼鏡は、想像していたよりもずっと軽く、華奢(きゃしゃ)だった。私は眼鏡を外した有栖川の端正な顔立ちを、まじまじと見つめる。
「眼鏡取ったところ見るの、久しぶりかも……有栖川ってずっと眼鏡してるから、思い出そうと思って有栖川のこと考えると、いっつも眼鏡かけてる有栖川の顔が浮かぶの」
「うん……そういえば、僕も人前で眼鏡外すの久しぶりだ」
「私の顔、見える?」
 そっと黒い前髪を()()げる。有栖川の髪はやわらかくて、絹糸みたいだ。私のその仕草を真似るように、有栖川も私の前髪をやさしく()き、掻き上げた。
「近づけばね」
 (ささや)くように言ったかと思うと、そっと唇に触れられた。
「……うわあ」
 なんだか胸がきらきらした。うれしい。
「何?」
「キスなんて、何年ぶりだろう」
 私が言うと、有栖川は可笑しそうに笑った。
「今朝もしたじゃない」
「ちーがーう。ほっぺとか、おでことか、口の端っことか、そういうのじゃなくて、ちゃんと唇と唇が触るやつのこと!」
 私が反論すると、有栖川はますます可笑しそうに笑い出す。私はふくれた。
「そうだなあ。……十年以上は」
「そんなに、なるかな」
「多分ね」
 そうか、と(つぶや)くように言って、私は考え込んだ。
 ずっと一緒にいたのに。
 有栖川とふたりきりでこの家に住んだこともあったのに。
 有栖川の下宿先に泊まったこともあったのに。
「全然気にしてなかった」
「僕もだよ」
 まだ笑みの残る顔で、有栖川も頷いた。
「僕も一応男だから、そういう欲求がないわけはないんだけどな。どうしてか気にならなかったなあ」
 うん、と頷く。
 でも、――だって。
 身体が触れ合っていなくても、いつも心が触れていたから。身体は遠く離れても、心はいつだって重なるほど近くに感じていたから。
 お互いがそう想っていることを、お互いが知っていたから。
「これまでの分は、これから取り戻していこう」
「いっぱいキスしようっていうこと?」
「そう」
 あはは、と私は声を上げて笑った。パジャマが肩からずり落ちて、上半身が裸になる。月光を浴びて、私の身体が白く浮かび上がった。
「不思議な色……」
「綺麗だよ」
 冗談のような口ぶりで本気で言って、有栖川は私の首筋に唇を落とした。くすぐったくて、変な笑い声を上げながら身体を(よじ)る。
「彼方、色気ないね」
「なくて困ったことがないからなあ。どうしたら色っぽくなるの?」
 今度は有栖川も声を立てて笑う。こつん、と額を合わせた。
 back  |  next



 index