back  |  next   
「それを研究して、論文にしてみたら? 案外大反響を呼ぶかもしれないよ」
「やだ。なんで、私は色気なしです! ってわざわざ宣言するようなことしなきゃならないの。いやだよそんなの」
「彼方でも?」
「彼方でもってどういう意味。私にだって羞恥心はありますよーだ」
 ふたりで笑いながら布団の上に倒れ込む。後頭部が布団からはみ出て、ごん、と(じか)に畳に打ちつけてしまった。
「ぁいった!」
「ほんと色気ないなあ」
「……有栖川は、色っぽい方が好き?」
 おずおずと尋ねると、有栖川は愛おしげに微笑んだ。
「どんな彼方も好きだよ」
 有栖川がやさしく身体を引き寄せてくれる。私は何とか布団の範囲内に収まって、寝転がった状態で有栖川を見つめた。
「きれい……」
 月の蒼さに染まって。
 神様の仕事を受けたみたいに整った顔立ち。
 星降る夜の瞳はまるでほんとうの空を磨いたみたい。
 そっと、指先で有栖川の頬に触れた。微かな弾力。確かな体温。彼も生きている。
 そう思った瞬間、感情が大きく膨らんだ。名前をつけることのできない、なんと呼んだらいいのかわからない感情が。
 ――声が、震えてしまうかもしれない。
「有栖川」
「ん?」
「私の気持ち、届いた?」
 夜の静寂が広がる。
 有栖川は答える代わりに、私の額にキスを落とした。
 目を閉じた。
 自然、涙が頬を伝った。
 これは、――これはあなたへの想いの一粒。
 有栖川はそれをわかっているように、一粒一粒を唇で辿った。
 有栖川の身体が重なってきたとき、私は不思議な既視感を覚えた。私は、このひとの身体を知っている。
 また一粒、閉じた瞳から想いが零れた。
 これは、きっと、郷愁。
 有栖川はいつも懐かしい。私の家。帰ってくる場所。
 ああ、やっと――。
 そんな、想いが。
「――有珠……」
 やっと(かえ)ってこられた。
 ようやく気づく。ひとつの真実。
 それは永遠ではないけれど――
 ――私の還る場所は、ずっと前からここだったんだ。



 ぼやけた視界がうっすら白い。
 障子をすかして光が射し込んできているのだろう。
 この明るさは朝――いや、もうお昼?
「――ああ、」
 朝か。
 横になったまましばらく呆然とする。小さな桜の散った障子紙は純白の筈だけれど、緩やかに降る陽光にほんのりと乳色になっている。二、三度しぱしぱと瞬いた。色褪せた畳の色、まな板を叩くリズム、お湯の沸く匂い。
 私はまだぼんやりしながら、のろのろと起き上がった。重力に従って、薄手の毛布がはらりと落ちる。
「……」
 思考停止してしまった。
 はっと気づいて、慌てて布団に潜り込む。何も着ていない。一瞬のうちに昨夜を思い出し、私は耳からぴーっと音が出そうなほど顔が赤くなるのを感じた。
「彼方? ああ、おはよう」
 お玉杓子(たまじゃくし)を持って部屋を覗き込んできた有栖川は、いつもと同じ(たたず)まいだ。白い綿のシャツにジーンズという簡単な格好で、エプロンを引っ掛けている。布団の中で素っ裸で丸くなっている私を見ると、にっこりと微笑んだ。これもまた、いつもと同じ。文句のつけようのない完璧な微笑。
「ご飯もうすぐ出来るよ。起き上がれる?」
「ん、――うん」
 多分。
 とは思ったが、口に出すのはやめておいた。
 こくりと頷くと、私は「取り敢えず着るもの、着るもの」とわたわたしながら枕元を探り、ふと手に当たったパジャマを拾って布団の中に引き擦り込んだ。昨夜のものだというのがまたなんともいえず恥ずかしいのだけれど、それしかないのだから仕方がない。諦めてパジャマに袖を通した。
 有栖川がにこにこしながらこちらを眺めているのが気配でわかる。
 恥ずかしい。
 ものすごく恥ずかしい。
 ギャーと叫んで(ふすま)を蹴り倒したいほど恥ずかしい。
 生まれてこの方、こんなに羞恥心を感じたことはない、ああでも昨夜もかなり恥ずかしかったと思って、私は奥歯を噛み締めた。そうしないと、本当にギャーと叫んで襖を蹴り倒してしまいそうだった。
 大体、有栖川も有栖川だ。
 わざわざ調理の手を止めて私の観察なんて、勘弁(かんべん)してほしい。
 袖を通してみると、そのパジャマは有栖川が着ていたシャツだということがわかった。着心地がいいのはいいのだけれど、サイズが大きい。どうしよう、と少し迷う。このシャツ一枚のままお風呂場に逃げ込むか、どこに散らかっているのかわからない自分のパジャマを探すか。
 私は布団にくるまったまま、ぐるりと室内を見回してみる。
 が、私が昨夜着ていた筈のパジャマはどこにも見当たらない。
「彼方、どうしたの?」
 ぞく、と背筋が凍った。
 (すさ)まじいまでの猫なで声だったからだ。
「え……いやあ、あのぅ……」
「彼方のパジャマなら今洗濯機の中だよ。下着もね。でもシャツがそこに一枚残ってるから、特に困ることはないよね?」
 怖い。
 その綺麗でやさしくて晴れやかで朗らかな笑顔が怖い。
 back  |  next



 index