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 私は布団の中で、うう、とか、ああ、とか意味を持たない(うめ)(ごえ)を上げていたのだけれど、このままではなんにせよどうにもならない、と思い、立ち上がろうとした。胸中では、
 まず自分の服を確保して!
 それからお風呂場に逃げ込む!
 と気合いたっぷりに計画していた。そしてそれは完璧な筈だった。
 が、甘かった。
「――――――――――――――っうぅっ…………?」
 がば、と音がしそうな勢いで、私は慌てて座り込んだ。にこにこしていた有栖川が途端に心配そうな顔をする。こちらに来ようとする有栖川に向かって手を伸ばし、ぶんぶん振った。来ないでほしいの意思表示。
「彼方?  どうしたの。痛い?」
 一応足を止めた有栖川に訊かれて、慌てて首を横に振る。痛かったわけではない。……痛いのかもしれないけれど、もっとずっと衝撃的なことが起こってしまったから、痛覚は働かなかった。
 ――こんな理由、絶対に口に出して言えない。
 湯気が出そうなほど火照(ほて)った顔で口をぱくぱくさせていると、何かに思い至ったのか、有栖川は微苦笑して「ごめんね」と言った。
 エプロンを取ると、私の(かたわ)らに膝をつく。
「ご飯の前に綺麗にしてあげるから、怒らないで」
 何を?
 問いを口の端に乗せる前に、有栖川の腕が膝下に入れられる。そうかと思うと、今度はふわりと身体が浮いた。
「えっ……え? あの、わっあっ、……ええ、ちょっと、待ってっ」
 慌てて有栖川の耳朶(みみたぶ)を引っ張ってみるけれど、まったくこたえない。横抱きにするなんて結構力がいるのに、有栖川は見かけによらず力持ちだ。有栖川は迷うことなくずんずん歩を進めていく。私は焦る。
「あ、ありっ」
「何?」
「有栖川っ」
「うん、だから何? でも呼び方戻っちゃったね。昨夜はいっぱい名前で呼んでくれたのに」
 そういうことは言わなくていい!
 とは思うものの、今はそんなところに突っ込んでいる場合ではない。
「有栖川っ、どこに行くの?」
「風呂場」
 予想通りの返事に、私は眩暈を覚える。冗談じゃない。
「僕のせいだからね。責任持って綺麗にしてあげる」
 有栖川はいつものようにやさしく笑って申し出てくれたけれど――
 ――私は勿論、断った。



 浴室の鏡に映った自分をしげしげと眺めてみる。特に変わった様子はない。昨夜は確かに自分が別のものにされてしまうような気がしたのだけれど、身体のそこかしこに点々と虫に刺されたような赤みがあるだけだった。
 ――へんなの。
 へんな気持ち。
 身体を流して、すっきりとした気分で浴室を出ると、既にきちんと朝食の用意が整っていた。
 不意に、せつなさが込み上げた。
 お吸い物のにんじんは花のかたちに抜いてあったし、卵焼きは少し硬めの半熟だった。有栖川にはもともと箸置(はしお)きを使う習慣はないのに、箸は可愛らしいうさぎの上に(そろ)っている。
 ――あの小さな紙包みはこれだったんだ。
 うさぎの箸置き、お揃いのお箸とお茶碗。湯呑(ゆの)みはうさぎではなかったけれど、有栖川の膳に並んでいるものと同じだった。大小の違いがあるだけ。
 デザートに出てきた林檎は、うさぎに()いてくれていた。
 そんなものが、哀しいくらい愛おしかった。
 有栖川はきっと、すべてを覚えているのだ。
 私に関するすべてを、身体で、心で。
「……すごい」
 私は思わず呟いた。
「これは奇跡だ」
 私はここに至ってもまだ、私の有栖川に対する気持ちを的確に表す言葉を見つけられないでいる。恐らくは有栖川も、自分たちの関係を言い表す言葉を知らないだろう。そしてこれからも、きっと知ることはない。
 でも、それでいい。
 白い朝の光の中で、向き合って朝食をとる。
 有栖川との出来事、彼の仕草、見慣れた癖。
 私の心に明かりをともす、眼鏡の奥のやさしい微笑。
 どんな表情をしたらいいのかわからなかったので、有栖川ならどんな表情をするかしら、と考えてみた。
 考えるまでもなかった。
 私は微笑んだ。
「ねえ、もし、もしもね、本当に、私には有栖川じゃないとだめで、有栖川には私以外ではだめだっていうんなら、これは、すごいよ。次の瞬間死ぬかも知れない中で一瞬一瞬生きて、生き続けていられるのが幸運なら、これは奇跡だよ」
 ああ、わかる。
 触れていなくても、遠くにいても。
 私のすべてが、有栖川に共鳴している。
「それって、私と有栖川が、お互いに救い合えるっていうことだよ、きっと」
 有栖川は微笑んだ。
 もうずっと前から決められていたことみたいに。
 この気持ちは、好きだとか愛しているという音では伝わらない気がしていた。そんなものでは間に合わない。それは本質を少しも(とら)えてはくれない。その思いは今でも変わらない。
 ――でも。
「ありがとう。僕もだよ」
 目を閉じてそっと言った有栖川の言葉に、はっとした。
 答えだ。
 私が有栖川に向けて飛ばした七通の恋文の。
 わかってしまう、何もかも。個であることはそのままに、心音、呼吸、体温、言葉の響かせ方まで、何もかも。
 小さく息を吸って、私も「ありがとう」と返した。泣いてしまいそうだった。
 静かに見つめ合い、同じときにゆっくり微笑む。
 はじまりの時はきた。
「あ、言い忘れてた」
「ん?」
 有栖川が箸を置いた。心地よい硬質の音が、朝の音色にゆるりと解ける。
 窓から見える晴れた空。入道雲がきらめく。きっと今日も暑くなる。
 私はふうと一息ついて、呼吸を整えた。少しどきどきしている。でもそれ以上に、胸がきらきらしていた。
 身体を丁寧に、真っ直ぐに有栖川に向ける。
 私を見つめる、いつも微笑を含んだ、美しいひと。
「おはよう、有栖川」
 私の声は、ふたりきりの部屋にやさしく響いた。




end.
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