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夜の降り方






 イタリアから帰ったその日の夜に、電話が鳴った。
 母親の姉、歌子(うたこ)からのものだ。その日から(みやび)は、心の安定を得られないでいる。



 なんの前触れもなく、ジリリとベルが鳴り出した。
 前触れもないのは当然で、これは目覚し時計の音だ。
 乱暴に手を伸ばして枕もとのそれを引っ(つか)み、スイッチをオフにする。雅はどんなに早く目を覚ましても、目覚ましの音を聞くまではベッドから出ない。
 最近は、音が鳴ってもなかなか出ないが。
「雅」
 控えめな音のノックに続いて、低いやさしい静かな声がした。頭上まですっぽりと毛布を被ったまま、雅は、
「いってらっしゃい」
 冷たく突き放すように言う。しんと鳴るような沈黙のあと、いってきます、冷蔵庫にサラダがあるからね、という声。それからまた音もなく扉が閉まり、気配だけの足音が遠ざかった。
 雅は微動だにしないまま、(ひろし)の歩幅であと何秒で第二玄関を出るかを胸の中で数えてみようとした。柘植(つげ)家には玄関が正門と仕事場用とある。
 挫折した。
 雅は、彼がひとりで歩くときの歩幅も速度も知らないのだ。
 博の仕事場は自宅と渡り廊下一本で繋がっているから車も必要なく、だからエンジン音も聞こえない。くさくさした気分で何度も寝返りを打つ。結局ベッドから出ようという気になった頃には、時計の針は午前十時を回っていた。
 身体を引きずるようにしてベッドから落ち、裸足をぺたぺた鳴らして窓辺に立つ。カーテンを開け、窓を開け放った。(まぶ)しさに目がくらむ。
「いいおてんき……」
 桃の香も匂い立つ頃、空は空気とともに澄んで哀しいほどに美しい。陽射しは日を追うごとに春を含み、景色を色づかせていく。
 結婚して二ヶ月、博は変わらずやさしい。そして雅が博と『デートのようなもの』をするようになってからを数えれば、彼とは四年ほどの付き合いになるが、一度も仲違いをしたことがなかった。これを順風満帆というのだろうし、夫婦円満というのだろう。でも、雅の心は苛立(いらだ)っていた。常に暗澹(あんたん)としている。
 寂しい快晴には風もなく、遠くほろほろと鳥の声が響くばかりで静かだ。
 ふうと吹いたそよ風、白いアスファルトをより白く輝かせる陽光。(はる)かに聞こえる春の胎動(たいどう)
 どこまでも明るい風景にとてつもなく不幸な気持ちになって、雅は(きびす)を返して寝室を出た。
 スリッパも履かず、パジャマのままで階段を下りる。ひんやりと冷たい木の質感が心地よい。
 リビングはさらに明るかった。
 カーテンが陽を透かし、床に薄くレースの模様を浮き上がらせている。辺りを見回すと、憂鬱な気分に拍車がかかった。磨かれた窓硝子(まどがらす)、陽光にやわらかく照るフローリング、機能的に整えられたキッチン。掃除は料理と並ぶ彼の趣味だ。
 硝子(がらす)を通り抜けた光が、空気中の微細な(ほこり)をきらめかせていた。日向に踏み込んだつま先をほんのりとあたためてくれる。
 ダイニングテーブルには、グラスとスープカップが逆さまに立っていた。
 雅はカップを持ってキッチンに回り込み、冷蔵庫からラップのかかったサラダを取り出す。
 鍋の中にはコンソメのスープが揺れていた。火にかけて、食パンを赤いトースターに投げ入れる。
 じりじりと()げるような火のにおいを意識の底で追いながら、雅は憂鬱の原因を探った。伯母の電話以外の理由だ。
 五秒考えて、やめた。
 伯母の電話だけが原因かと思っていたが、予想どおりといおうか、やはり違ったようだ。ありすぎてわからない。
 すべてが原因かもしれないし、どれも違うのかもしれなかった。もともと雅は原因も経過もすっ飛ばして、結果のみが出ることも珍しくない。原因、経過が自己で認識できない速さだともいえる。原因があり経過があって結果を得る博とは根本的に違う。
 ちん。
 トースターがかわいらしい金属音で出来上がりを告げた。中のパンは部分部分を黒く焦がしている。
 贅沢(ぜいたく)な物言いだが、不味そうだ。
 かじってみるとひどく苦く、おまけに硬く、思わずべーと舌を出してしまった。
 年季の入った赤いトースターは、その時々によって調子が変わる。タイマーを五に合わせて十働いてしまうかと思えば、十に合わせて五しか働いてくれないときもあって、気難しい。自分と似ている、と雅はトースターを相手にするたび思った。
 ――気まぐれで気難しくて傍迷惑(はためいわく)で、本当、私とそっくりだ。
 そしてそっくりだからなのか、同類嫌悪というやつが当て嵌まるらしく、トースターと雅の相性はすこぶる悪い。ちなみに博はとても上手くこのトースターと付き合っている。こいつ狙ってるんじゃ、と雅が腹を立てるほど、博が使うときはなんでもきれいに焼ける。きっとこのトースターは女だろう。結婚して三日目で、雅はそう見当をつけた。(かまど)の神といえば女神だ。
「……仲良くしようよ」
 不貞腐れるように呟いて、彼女の横っ面を指でつついてみた。かちんと硬質、反応はない。
 週に一度、ご主人様の博に磨かれている彼女は年齢よりもずっと若く見えた。赤い面はつやつや光って、いつだってすごく元気そうだ。特に近頃は、博と雅がよそよそしいのを喜んでいるのか、いっそういきいきして見える。そうでなければ、大好きなご主人様を困らせている雅に対して怒髪天(どはつてん)()いているのかもしれない。どちらにせよ顔は真っ赤だ。
 わけもなく涙が込み上げてきて、雅は今度はデコピンをしてやろうと彼女に近づき、
 ――やめた。動けない彼女にこんなことをするのは卑怯だ。
 ぬるいスープと焦げたトーストを胃に流し込む。冷蔵庫からワインを取り出し、グラスの中ほどまで一気に注ぎ込んだ。
 ワインボトルを持っていたら、嫌なことを思い出した。
 イタリアに赴任してきているのだというフランス生まれフランス育ちに厭味(いやみ)ったらしく色々と突っ込まれたことだ。しかも友人ではない。知人でもない。トラットリアで声をかけてきた見知らぬ男だ。講釈を垂れられたあの時間はほんとうに無駄だった。余計なお世話のひとことに尽きる。
 ワインを常温で保存しようが冷蔵庫で保存しようが飲み手の勝手だ。店ではそうはいかないだろうが、自宅用、しかも個人所有である限り、好きなように飲んで何が悪いというのだろう。ソムリエの資格を有しているからといって、文句をつけられる筋合いはない。大体、保存する場所の気候だって違うのだ。日本の夏は三十五度を超える。
 ラディッシュの散らされたサラダを(さかな)に、うっすらと色づいた白ワインを飲む。サラダは瑞々(みずみず)しくておいしかった。
 ――こういうのをアルコール依存症っていうのかなあ。
 グラスの中でワインを回しながら考える。
 酒はビール以外ならなんでも好きだ。楽しいときも飲むし、哀しいときも飲む。でも、飲まなければ飲まないでも差し障りなく生活できる。体内にアルコールがなくなったからといって、苛立ったり落ち着かなくなったりということはない。
 酒は好きだ。だっておいしい。
 最近はどうだろう。よくわからない。
 ストレスが食欲に変換される人間は少なくない。それと同じだろうか。好きなものを積極的に摂取することで、なんとか(がけ)にしがみついているのだろうか。
 わからない。
 こころが不安定に過ぎて、思考も安定しない。
 そのあと、雅が唯一博よりも頻繁にこなす家事である洗濯をした。とはいえ、汚れ物は既に綺麗に洗われて、(たた)まれた状態で(かご)の中に収まっている。
 これもいつものことだ。
 雅は専業主婦ではないが、仮に専業主婦だとしても、恐らく家の仕事においては役立たずだろう。いてもいなくても変わらない。
 パジャマの上に丈の長い春物のコートを羽織(はお)り、サンダルを突っ掛けて外に出る。洗濯物がよく乾きそうな、いい日和(ひより)だ。
 見上げると、(まぶた)の裏に涙が(にじ)んだ。それを陽射しのせいにして、雅は黙々と洗濯物を広げていく。
 仕事は億劫(おっくう)だったけれど、手は()いた。
 昼になれば、昼食を取りに博が一旦帰宅する。それまでに洗濯物を干し終え、昼食を準備し、またベッドに(もぐ)り込まなければならない。できればそのまま寝入ってしまいたかった。寝たふりをするのはつらい。
 籠から拾い上げたタオルをぱんと張る。
 鼓膜を叩くように小気味よい音が(はじ)け、雅は泣きたくなった。



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