back  |  next  
 炒飯(チャーハン)をテーブルに置いた雅は、急かされるようにしてベッドに戻った。午後からはひとと会う約束をしている。気合いと気力の必要な相手だということがわかりきっているので、それらを養いたかった。時間をかけずにそうするには、寝るのがいちばんだ。
 目覚まし時計を一時にセットし、枕を一回やさしく叩く。「一時に起こしてね」とお願いして、身体を丸めた。雅は枕との相性はいい。
 ――どうしてこんななのだろう。
 どうしてこんなにしずかでいられないのだろう。
 頭の中を、そればかりが駆け巡る。
 博さん、ごめんなさい。
 そう、それも。
 理由はわからない。博に対して不満があるわけでもない。ただ漠然と、彼に対して残酷な気持ちになってしまう。無性に傷つけてやりたくなって、悪意や(とげ)いっぱいの皮肉で博を責めてしまう。
 ――今朝だって。
 今朝だって、あんなふうにぶっきらぼうな言い方をするつもりはなかった。ちゃんと一緒に朝食を取って、いってらっしゃい、と見送るつもりだったのに。
 それでも博は声を荒げることも、眉を(ひそ)めることもなく、雅がそうして足掻(あが)くごとに、少し困ったような寂しそうな微笑を浮かべた。それに雅がどうしようもなく苛立つことも知らずに。
 雅が口にしない限り、博には決してわからないのだ。声を大にして訴えてもわかってもらえないかもしれない。
 雅は許してほしいわけではなかった。
 ひくついて鳴りかけた(のど)を押さえ、嗚咽(おえつ)を呑み込む。この程度で泣いてしまうだなんて、おかしい。いつからこんなに弱くなってしまったのだろう。
 かたかたと、窓が音を立てた。風が出てきたらしい。その風に乗って流れてくる十二時のサイレンを聞きながら、雅はいつの間にかうとうとと眠りに落ちた。
 浅いはずの眠りの中、雅はかたちのない夢を見た。それとも、浅かったから見たのだろうか。普段は夢も見ずに眠るのに。
 想像というよりも、記憶。母と、ふたりいる父の三人が、背の高い女性と対峙(たいじ)している。きつく正面を見据(みす)える雅を抱きしめた妹の小鞠(こまり)が、泣きながらその背の高い女性に何か言っている。
 ――ああ、これは、私が高校一年生のときの記憶だ。橘川(きつかわ)の家がもっともつらい時期だっただろう、そんな頃の。
 制服姿の雅の瞳にやさしさは欠片もなく、ただ、私は何も悪いことなんかしていないという強い主張のみがぎらついている。
 怖い、と感じた。
 過去の自分のことなのに。
 触れたら切れそうだ。
 でもあれは、私に必要なことだった。
 ふと、熱い瞼に何かが触れた。
 確認しなくてもわかる。あたたかい、少し乾いた指先。いつも清潔に短く切り揃えられた爪。彼は歯科医師なのだ。
 (かす)かに、消毒薬のにおいが鼻腔(びこう)(かす)める。
「雅?」
 (ささや)くような声だった。雅はまた泣きたくなって、寝たふりを決め込むことにする。こんなふうに博を避けるのは、大体三日に一度。そろそろ別の手段を考えなければ、たとえ仮病だとばれているにしても病院に連れて行かれてしまいそうだ。それだけは勘弁(かんべん)してほしい。雅は基本的に、医師と教師と警官は嫌いだ。
「具合、悪いの?」
 博はひとにやさしくすることを躊躇(ためら)わない。ひとを許すことを(いと)わない。その点において、彼は天才だった。
 けれど、雅にはそれがひどく痛む。
「…………ねむいだけ」
 無視し続けることができずに、中途半端に首を振って小さく答えた。瞼にあった指先が寝乱れた髪を()き、そっとかき分けて(ひたい)をすっきりさせてくれる。
 (まつげ)が濡れた。
 カーテンも窓も、閉めておけばよかった。どうして部屋を明るいままにしておいたのだろう。泣いているところなど、博に見られたくない。
「午後から、大丈夫?」
「うん」
 指先はそろそろと雅の頬を労わるように()で、離れた。
「迎えにいこうか」
「だいじょうぶ」
 朝と同じ沈黙が落ちる。
 雅の脳裏に、突き抜けるように澄んだ蒼穹(そうきゅう)(ひらめ)いた。雲のない晴れた空は、博に似ている。
「……おやすみ」
 やがて、諦めるような博の声が降りてきた。
 こんなのは違う、と思った。
 雅は、博を傷つけたくて結婚したわけではない。
 ならば何故結婚したのだろう。雅の中では、好きだという気持ちと一緒にいたいという気持ちはイコールでは結ばれない。婚姻など、ただの紙切れ一枚のことだと思っていたはずだ。
 どう考えても、デメリットが多いはずなのに。
 扉が閉まる。雅の心も塞がれる。
 息ができない。



「雅さん、お久しぶり」
 赤い赤い口紅の引かれた厚い唇。神経質そうな眉。
「……お久しぶりです、 歌子伯母様」
 頭を下げながら、雅は内心で眉を顰めた。母より五つ年上の姉であるこのひとが、雅は苦手だ。
 その苦手な伯母から電話があったのは、一昨日の夜のことだった。話したいことがあるから時間を取れないかという。帰国してすぐの電話を思い出してみた。のらりくらりとかわしていたのがいけなかったらしい。
 断る口実はいくらでもあったが、それを繰り返せば家まで押しかけてくるのは火を見るよりも明らかだった。
 ちらりと上目遣いに雅を見、詰問(きつもん)口調で伯母は(たず)ねる。
「あなた今はなんの仕事もしていないの?」
 関係ねーでしょーが。
 言ってやりたいのをぐっと耐えて、ソーサーからカップを持ち上げた。
「アルバイト程度ですが、翻訳のお仕事と――それから、友人の息子さん相手ですが家庭教師をさせていただいております」
 ――ああ敬語めちゃくちゃかも。
 この伯母の前に出ると妙に緊張してしまって、上手く言葉を(つむ)ぐことができない。
「そうなの」
 伯母は気のない返事をして、ふうと椅子の背に体重を預けた。かわいらしい喫茶店の内装にぴったりの木製の白い椅子が、きしりと小さな悲鳴を上げる。
 雅は伯母に気づかれないよう肩を(すく)め、視線を外に転じた。
 空はもう薄暗く、裸の街路樹が(こご)えそうに風に揺られていた。(こよみ)の上ではもう春だが、夕方以降ともなれば真冬に逆戻りしたかのような寒さだ。
「ねえ、雅さん」
 冷めてしまった紅茶に口をつけていると、伯母は身を乗り出して雅に顔を寄せてきた。ぷんと癖のある香水が香る。
「あなたたち、結婚してどれくらいになるんだったかしらね」
「二ヶ月になりました」
 なんとなく察しがついた。
 ――こういう切り出し方っつったら、アレしかあるまい。
 back  |  next



 index