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 来るぞ来るぞ……と思っていたら、案の定、来た。
「まだ子どもをつくる気はないの?」
 来ましたねお約束。
 そうですね、と雅は適当に(うなず)いてみせる。そうですね、でもまだ二ヶ月ですよ。関心のなさそうな態度に、伯母は芝居がかった大袈裟(おおげさ)溜息(ためいき)をついた。
「あちらの親御さんは、そういうことを何も言ってこられないの?」
「ええ。特に何も」
 頭の中に、博の両親の記憶を辿って再現させてみた。
 ――新婚さんですって、昔を思い出すわね恭静(きょうせい)さん。
 ――これからまた新婚第二期ってことで、仲良くやりましょう五十鈴(いすず)さん。
 助言はくれるが干渉はない。どうやらあの夫婦、博が成人した時点で自分たちの生活云々とはほぼ完全に切り離してしまっているらしいのだ。博自身、もう大人なんだから勝手にやれと言われたらしい。なるほど、博の両親だ。
 伯母はやれやれというふうに、ティーカップをくちもとに運んだ。
「ねえ雅さん。あなた、身体は大丈夫なの?」
「――――――――は?」
 何?
 何を言われたのかわからなかった。
 思わず目を点にする雅に向かい、伯母は(わず)かに苛立ったように繰り返す。
「だから、身体は大丈夫なの? 避妊はしてないんでしょう? まさか博さんに問題があるなんてことないわよね」
 伯母は当然の如く言い放ち、カップを傾けた。
「だとしたら詐欺だものね」
 手が震えた。
「まだ……子どもなんて」
 力なく首を振ると、それを見て取った伯母は何を勘違いしたのか、
「最初は誰でも不安なものよ」
 と笑顔をつくった。
 背筋を冷たいものが走る。
 ――そんなんじゃない。
 思うが、口には出せなかった。黙っている雅を見て、伯母は神妙な顔をして席を立つ。私が出しておくわ、と伝票をてのひらに収め、放心している雅に、
「なるべく早くね。あちらの親御さんが何も言わないからって、それに甘えちゃ駄目よ。……私のことも、早く安心させてちょうだい」
 まったく、かのんもかのんなら、(そう)さんも蒼さんだわ――ぶつぶつと(こぼ)しながら、伯母の堅肥(かたぶと)りの背中が遠ざかっていく。
 ――あんしん?
 安心って、何が安心なのだろう。
 そういえば伯母は、雅が博――というより、歯科医師と結婚するとの(しら)せを受けたときも、険しい表情のまま肩の力だけ抜いて、「一安心ね」と言った。
 結婚して安心で、子どもがうまれて安心? どうしてなのだろうか。
 伯母の姿が店内から完全に消えてしまっても、雅はしばらくの間、立ち上がることができなかった。



 ……帰れない。
 こんな精神状態のまま、博の顔を見たくなかった。
 公衆電話の受話器は重たい。ずしりと腕にくるそれをもとの位置に戻す。
 実家に電話をしたら珍しく蒼が出た。蒼は何も訊かず、ご馳走(ちそう)にしようかな、と笑った。
 ――ごつんっ。
 電話の角に額を打ちつける。
 ひやり、冷たい。気が重い。
 一度置いた受話器を持ち直し、カードを通す。最近は携帯電話の普及で公衆電話は出番なしらしい。雅は携帯電話を鬱陶(うっとう)しいと思う人間だから、公衆電話が混まないのは嬉しい。そして、なくなるのは困る。
 三度のコールのあと、ふつりと音が途切(とぎ)れた。
 電話なんて久しぶりだ。
 聞こえてきた声に、僅かに心臓が跳ねる。
「あの……博さん」
「うん? どうしたの雅、もう暗いよ? 迎えにいく?」
「……ううん」
 やだ、もう。
 鼻の奥が詰まった。
 なんだってこのひとは、こんなにもやわらかいのだろう。
「あのね、帰る途中でこまちゃんに会ってね。お夕飯食ってけって言われたから。久しぶりに泊まろうかと思って」
 小鞠には会っていないし、だから当然それ以外も真っ赤な嘘だ。なのに、自分でも驚くほどさらりと嘘が出た。落ち込んでいるんだ、と自覚した。落ち込んでいるときの雅は、ひどい嘘つきだ。
 本当は、
 ――博さんに会いたくない。
 それだけだった。
 博は何も知らないふうに笑った。
「ああ、たまにはいいんじゃない? 小鞠ちゃんも喜ぶでしょ」
 その台詞(せりふ)には、雅も少し笑みを()らした。――(うつ)ろに、なってしまったが。
 雅が博とよく会うようになった頃、彼女が「ツゲさんとかいうひとにみーちゃんとられた!」と言ってむくれていたことを知っているのだ。
「明日、迎えにいこうか?」
「……ううん。お散歩がてら、歩いて帰る」
「わかった。じゃあ、気をつけて帰っておいで」
 うん。短い返事。ありがとうも、ごめんなさいも言えなかった。
 風に押さえつけられて重たい扉を開け、首を竦めた。半島の先端近くに位置しているからか、夕方以降は海からの強風がすべてを(あお)り立てるように吹きつける。
「さむ……」
 寒いというよりも、痛かった。(ほほ)がぴりぴりする。雅が風なら、きっとこんな冬のそれだろうと思う。痛い思いをするのはいつも博だ。
 あまりにも居心地がよくて、忘れてしまっていた。
 何故結婚したくなかったのか。
 雅は基本的に愛情をそれほど信用していないし、夢もあまり見ていない。愛なんて本能を飾った言葉なのだから、三年もすれば()める。それ以降は、錯覚(ある)いはボランティアだと考えていた。そして、それで幸せならそれもいいとも。
 ひとりで働いて、稼いで、好きなことをする。難なくできていたから、結婚は生活上の必要すらなかった。自立できない男を馬鹿にしたし、軽蔑した。そんな男に助けてもらわなくては生きていけない女になりたくなかった。一生を独身で終えることに抵抗を覚えたことはない。苦い結婚生活と気儘(きまま)な独身生活なら、迷うことなく後者を選ぶ。
 恋愛や結婚に幻想すら抱いていなかった雅にとって、博は存在そのものが完全に予想外()つ予定外だったのだ。
 抱きしめてくれる腕が、あんなにあたたかいなんて。髪をかき上げてくれる指先があんなにやさしいものだなんて、知らなかった。
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