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 伯母の言葉が頭の中をぐるぐる回る。
 一際強い風が雅の頬を殴る。見上げた空にはオリオンがきらきらと細く(またた)いていた。
 雅が結婚したくなかった理由。
 博を拒絶し続けた理由。
 いつか、言ったことがあった。自分のことで精一杯で博にやさしくできないから、一緒にいられないと。
「絶望的に進歩ないな……」
 溜息をついて、視線を落とした。
 全然やさしくない。未だに自分のことしか考えていない。
 雅は、子どもを産めと言われるのが嫌だったのだ。
 それ以上に、怖かったのだ。
 子どもを産むために結婚するのではないし、結婚が出産とイコールで結ばれている時代などとうに終わっている。けれど、その風潮は根強い。根深いと言うべきか。少なくとも雅はそう思う。社会の、そして社会を構成する個人の、本人ですら気づけないほどの奥深くにその流れはまだ確実に残っていると思う。
 それに対して従順になるか、反発するかの違いはあっても。
 もちろん雅自身にも当て嵌まる。そうでなければ、伯母の一言でこんなにも揺れたりしないはずだ。
 雅が結婚するとき、伯母は言った。
 ――雅さん、これからはあまりふらふらしていちゃ駄目よ。結婚はそういうものなんですからね。
 そういうものってどういうものですか。
 と、突っ込んでやればよかったのだろうか。
 言わなかったのは、結婚が祝い事だったからだ。喜んでくれているひとたちがいるのに、それに水を差すような真似をわざわざすることはない。
 ――まだ子どもをつくる気はないの?
 耳の奥に木霊(こだま)する。
 死刑を宣告されたような気分だった。
 それも、冤罪(えんざい)。雅の訴えなど何ひとつ聞き入れてもらえず、ただ一方的に、死ねと言われた気分だった。それに、
 ――身体は大丈夫なの?
 なんてひどい言葉だろうと思う。大丈夫か、なんて。子どもを産めない身体は、そんな身体を持っている女は欠陥品の役立たずだと言わんばかりの響きだ。言った本人にそこまでの意識はなかったかもしれないが、雅はそう(とら)えてしまった。そう捉える人間がいるのだと自分自身で思い知ってしまったから、今すれ違った女性が、自分と同じく傷つくひとかもしれないと考えてしまう。
 涙が浮かぶ。(こぼ)さなかったのは、博を想ったからだ。こんなふうに自分のことしか考えられない、博の想いの僅かにも(こた)えられない自分が妻の博を、哀しく思ったからだ。
 博はこんな自分のどこを好いてくれたのだろう。
「みーちゃんっ」
「わっ」
 突然、背後から黄色い声とともにどすこいとばかりの衝撃に襲われた。
「こまちゃんっ」
「えへへーびっくりした? した? 帰ってみたらお父さんが今日は雅がお泊まりにくるよとか言うんだもん! 迎えにきちゃったあ」
 今年で二十一になるはずの妹は、きれいな曲線の頬を赤く染めて嬉しそうに笑った。薄いジャケットの腕は、しっかりと雅を抱きしめている。その邪気のない笑顔に、緊張していた雅の頬も緩んだ。
「ありがと。……こまちゃん、なんかかわいいよ」
「ほんと?」
 小鞠がぱっと顔を輝かせる。
「みーちゃんが来るって言うから、お化粧し直したんだもん〜」
「なんで私と会うのにお化粧直しをする必要があるのか……」
「みーちゃんは相変わらずメイク下手だよね!」
「ほっとけってのよ」
「教えてあげてるのに上達しないよねえ」
「自覚してるから追い打ちかけないで」
 無理矢理笑って、それでもほっと息をつく。
 泣く前でよかった。泣かずにすんでよかった。泣いてしまっていたら、きっとひとりで立っていられなくなっていた。
「チークの色変えた?」
 些細な変化ではあるけれど、気づいたから訊いてみた。
 知らず、今度は自然に微笑していた。小鞠があんまりかわいいから。嬉しさいっぱいの笑顔が愛おしく、懐かしくて。
 小鞠が元気に頷く。
「うん変えた! オレンジ寄りの色の方が似合うんだよね。春の新作にいい色出たから買ったの」
「似合うよ。かわいい」
 雅が再度褒めると、小鞠ははにかんで、ありがとう、と笑った。それから冗談めかして唇を尖らせる。
「ひっどいよ、お父さんもお母さんも全然気づいてくれないの。お父さん・圭一郎(けいいちろう)はね、自己申告のあとだったけどわかってくれて、でもお父さん・蒼は説明しても物出して並べて見せても全然わかってくれなかった」
 お母さんは言わずもがな、と溜息をついてみせる小鞠は、本当に以前よりずっときれいになっていた。口にすることは相変わらずだけれど、長い睫だとか口角が上がった気味のかたちのいい唇だとか、何気ない表情。たいして(とし)の変わらない雅が言うのもおかしいかもしれないが、大人びて見える。
「ん? なに?」
 隣を歩く雅の視線に気づいて、小鞠が心持ち首を傾げるようにして尋ねた。背中まである長い髪が揺れる。
「こまちゃん、きれいになったね……」
 正直な感想だった。小鞠はきょとんとして、それからあははと快活に笑う。
「恋してるからじゃないの?」
「クレールと?」
 驚いて()き返すと、小鞠は指先で頬を(さす)った。
「うん。なんかもう齢の差気にするのも馬鹿馬鹿しいわ」
 小鞠らしい。雅はくすりと笑う。
 以前出かけたフランスで、小鞠は雅の友人であるパティシエに拾われた、らしい。詳しくは知らないが、小鞠が「拾われた」と言ったから、まあそうなのだろう。そこで小鞠は()れられてしまったらしく、彼女は年齢の差だのなんだの文句をつけて抵抗したものの、結局は無駄な足掻きに終わった……ようだ。今の口ぶりから察するに。
「なんだろ、なんかね、あっちはもう圧倒的に大人だからね。一緒にいるって決めた以上とりあえずまずは同じ位置に立つ! って、いろんなこと頑張れるの。そういうのってすごいよね。特に愛してるーとか思わないけど、頑張りたいって思って、自然に頑張れる自分になれるのは、あのひとがいるからだと思う」
 空にかかるのは細い下弦の月。猫の目みたいに細い、氷みたいに冷たい。それでも夜道は不思議に明るくて、月光は星の光も連れて踊るように降ってくる。
 ……少し。
 ほんの少し、小鞠が(うらや)ましかった。
 こんなふうに真っ直ぐに、純粋にひとを想うことができる小鞠が。
「って、惚気(のろけ)ちゃった」
 照れているからか、なんだか困ったような、でもすごく幸せそうな。見ているこちらまで幸福に触れられそうな笑顔を見せる。
 自分はこんなふうに笑えるだろうか。博のことを想って。
「あ、そんで具体的に何を頑張ってるかというと!」
 うっふっふ。
 歩きながら(かばん)を探り出した小鞠に、雅は危ないよと注意した。
「あぃてっ」
 注意した雅がつまずいた。
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