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「やだあ、みーちゃん大丈夫? 危ないなあ、気をつけてね」
「……はい」
 なんで前見てない小鞠がつまずかなくて、普通に歩いている雅がつまずかなければいけないのだろう、何かが間違っている。――いや、雅はどんくさい。そして小鞠は機敏(きびん)で反射神経もよく、無駄なく動く。間違っていない。
「じゃーん!」
 小鞠は得意げな顔をした。雅の目の前に勢いよく突きつけられたのは、
「……参考書?」
「ちょっとはずれ。問題集!」
 車一台が通るのがやっとの細い道路のむこうに、懐かしい家が見えてくる。
 でも、なんだか、遠い。客として来ているのだと強く思う。
「実はさー、大学。行こうと思って」
 目を丸くした。小鞠はまた、照れたように笑う。
「勉強なんてどこだってできるけど、でも、勉強したいって気持ちがあって学校行ける条件が整ってて……学校って、勉強するにはいい環境だもんね。当然だけど。勉強したくなったからねえ、行くんだ」
 門扉(もんぴ)を開けながら。
 闇の中、部屋の明かりに一瞬見えた小鞠の瞳。迷いのない、透明な――こういう目をしているときの人間は、強い。揺るがない。
 博みたいに。
「……うん。がんばって」
 とてもやさしく響いた。雅自身が驚くほど。
 小鞠は嬉しそうに頬を染めて頷く。
「何を勉強したいの?」
「世界」
 即答だった。その単語の選び方や言い方が小鞠らしくて、笑ってしまう。
 尊敬もした。
 自ら教科書や学校を切り捨てたことに後悔はない。けれど、雅にはどうしても学校はつらい場所でしかなかったから、勉強したいから行くと純粋に目標とする人間は眩しい。羨望(せんぼう)とは違う。こころの底から、そのひとがその場所で素晴らしいものに巡り会えたらいいと思う。
 小鞠が玄関の扉を開けると、懐かしいにおいがした。あとに続いて敷居を(また)ぐ。
 かのんの毎朝の日課となっている玄関掃除のお陰で、橘川家のそこは常に明るく清潔だ。丁寧に磨かれた三和土(たたき)、きちんと揃えられた靴。かのんの行動の端々は、年々蒼に似てきている。
「やあ。雅」
 ひょっこりと、リビングの扉を開けて蒼が顔を覗かせた。目尻にゆったりと刻まれる笑い(しわ)。皺が人間を表わすというのは、あながち間違ってはいないと思う。
「……ただいま、お父さん」
 泣きたくなった。
 気づかなかったのか、それとも気づかないふりをしてくれたのか。蒼は、縁起でもないなあと苦笑した。
 本当だ、縁起でもない。
 雅も、ただいまと言ってしまった自分に、思わず苦笑が漏れた。自嘲(じちょう)を多分に含んだ笑み。きっととても(みにく)かった。
「お父さんとお母さんは? 長船(おさふね)たちは元気にしてる?」
 自分を誤魔化(ごまか)すように尋ねると、小鞠はうんと頷いた。
「お父さんは出張。なんか図面と違ったみたい。そんでお母さんはわけわかんない工作中。なんとか言ってやって」
 肩を竦めた小鞠に、見えもしないだろうにリビングの奥から「わけわかんなくないっ」という反論が響いた。相変わらずだ。雅の居場所が欠けて、そしてそれを新しい何か、或いは自分たちで埋めていっている途中なのだ、この家は。
村雨(むらさめ)正宗(まさむね)は二階で寝てる。虎徹(こてつ)は夜遊び。長船は和室で寝てる」
「元気なんだ」
「うん。でも長船は、みーちゃんがいなくなってからちょっと元気ないよ。ひとり暮らししはじめたときより、もっと。みーちゃんがお嫁にいっちゃったのがわかるんだね、きっと」
 苦笑で返しておいた。
 村雨、正宗、虎徹、長船というのは、皆、猫の名前だ。もうひとりの父親である圭一郎が拾ってきた竹光(たけみつ)の子どもたちで、非常に凛々(りり)しい――というか雄々(おお)しい名前だが、竹光と虎徹はメス。竹光は雅が二十歳のときにこの世を去ってしまったが、十八歳という大往生(だいおうじょう)だった。
 四匹とも仲良く過ごしていたが、特に長船は雅にべったりだった。小鞠は雅が長船ばかりかまうのにふくれていたくせに、いざ彼に元気がないのを見るとやはり心配らしい。
 脱いだ靴を揃えて、スリッパに履き替える。客用のものではなく、以前雅が使っていたものだった。
 甘えている、と思った。
 私はまだ、この家に私の一部を残してしまっている。
「お母さん」
「みーちゃん! 久しぶり」
 ほっくり。
 そんな表現がぴったりだ。
 かのんは小鞠との血縁は一切ないが、こんな笑顔を見るとき、雅はいつも小鞠とかのんの方が共通点が多いと感じてしまう。
 リビングの明かりの下、ダイニングテーブルを工作台にして、かのんは小鞠の言ったとおり何やら製作中のようだった。新聞紙を広げた上に、どどんとでっかいハリネズミみたいなサボテンが真ん丸く(うずくま)っている。
「うふふ。今ね、針をつくってるとこなのよ」
「はり?」
 不審そうに眉を顰めると、玉杓子(たまじゃくし)を持った蒼が笑いながら補足説明に出てくれた。かのんは言葉が足りないのだ。
「サボテンの棘で、針を作ろうとしているらしいよ」
「ええ?」
「だって、素敵じゃない?」
 かのんは真剣だ。
「サボテンの針で縫ったきものなんて、ちょっとよくない?」
 目がきらきらしている。
 小鞠は至極(しごく)現実的思考の持ち主なので、コートを脱ぎ脱ぎ「無理無理、何本必要になるのよ」とあっかんべーをした。
「あら、そんなことないわ。糸を通す穴さえ開けばなんとかなるわよ」
 ぷんとふくれながら言い返す。こちらも負けずに子どもっぽい。
「……まあ、世界にふたつとないきものって感じは、するよね……」
 ぼそりと(つぶや)くと、ほら! とかのんは胸を張った。小鞠は、みーちゃんはいっつもおかーさんの肩を持つ、と()ねだす。どちらの味方をした気もない雅は、ただ乾いた笑みを見せるしかなかった。
 本当に相変わらずだ。
 寂しくなるくらいに。



 ひとり分の空席があるのは残念だったけれど、久しぶりの大人数での食事だった。食卓に並べられたのは純和食で、どれも地味なものばかりだったけれど、雅にとっては確かにご馳走だった。鮭の塩焼きも、肉じゃがも、豆腐とわかめの味噌汁も、全部雅の好きなおかずだ。
「蒼さんのごはんを食べ慣れちゃうと、ほかのとこで食事できないからだめね」
 ふむ、と何に対してだか妙に納得しながらかのんがうんうん首を縦に振る。彼女が台所に立っているところを、雅は生まれてこの方見たことがない。
「お父さんにも会いたかったのにな」
 気分が落ち込んだときは、あの底抜けに明るい父親に会うのが一番だ。干渉してこない、無闇(むやみ)に励ますことは決してしない、でも限りなく突き抜けた圭一郎に会うのが。
 博と似ているところがある――だろうか。あるかもしれない。でも、今の雅にはよくわからない。
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