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 ――こんこんこん。
 三度のノックのあと、布団を(かつ)いだ雅はそっとドアを開けた。
「こまちゃん、いっしょに寝てもいい?」
「……うん」
 真っ暗な部屋から、簡単な答えが戻ってくる。ほっと胸を撫で下ろした雅は扉を限界まで開き、背負った布団を引きずって中に入った。そのままベッドと平行に並べて布団を敷きはじめる。それを見て電気をつけようとした小鞠の手をやわく(さえぎ)った。ほんの少し微笑んでみせると、小鞠も安堵(あんど)したようにくすくすと笑い出す。月明かりで十分だった。
 しんしん。
 しんしん。
 夜は雪のように降る。
「こまちゃん」
 天井を見つめたまま、独りごちるような不明瞭さだ。月明かりがカーテンを透かすだけの室内で、小鞠も蚊の鳴くような声で返事をする。
 博の指先を思い出した。
「こまちゃん、セックスしたくないって思ったこと、ある?」
 小鞠の呼吸が止まったのがわかった。
 横になったままベッドの上から雅の方へ顔を向け、ゆっくりと起き上がる。
「博さんに何かされたの?」
 橘川家には、兄や姉と呼ぶ習慣がない。
「違うよ」
 どんな発想だ。笑ってしまった。
「ただ思ったから訊いてみたの。ある?」
「……嘘。みーちゃん、そういう質問は思いつきでしない」
 また、笑ってしまった。
 そうかなあ、と誤魔化す。本当に思ってみただけなの、と。
 本当のことを言えば、小鞠に余計な心配をかけるだけだ。
 不自然な笑顔のまま、昼間を思い出した。こってりと厚い赤い唇の伯母が浮かぶ。
 ――あなた、身体は大丈夫なの?
 ――避妊はしてないんでしょう?
 今は精神的に不安定だから周期が乱れているけれど、生理は来るし、市から葉書(はがき)が来るたび必ず受けている健康診断でも異常はみとめられない。身体は一応健康だ。
 ――不妊かどうかはわからないけど、避妊は全然してませんよ。
 心の中で吐き捨てるように思う。
 ――まさか博さんに問題があるなんてことないわよね。
 ――問題があるのは私です。
 博とは、もう二ヶ月ほどセックスをしていない。
 結婚したのが約二ヶ月前だから、結婚してからほとんど性的な交渉は持っていないということになる。かといって、結婚前に飽きるほど行為を重ねていたのかというと、そんなことはない。比較対象を持たない雅には判断はつけにくかったが、雅が海外に出かけていた期間を差っ引いても、回数は少ないだろう。そもそも、新婚で二ヶ月も接触がないなど、何か明らかな――単身赴任だとか、そんな事情でもなければ考え難いケースに違いなかった。
「……きもちいくないの?」
 まるで自分のことのように不安そうだった。
 ――触られて気持ちよくないのは、レンアイに関わらずココロが拒否してるからだよ。
 小鞠は常々そう言っている。
 雅は滲む涙を隠すのに腕を目もとに乗せて、首を振った。
「いいとか、いくないとかじゃない」
 ただ、苦しかった。
 求められることが。
 身体ではない。身体でも、こころでも、何につけても、雅は求められることにあまり慣れていない。そんな度量は持ち合わせていない。受け止めきれない。
 怖いのだ。どうしようもないほど。
 安定しているときには気にならない様々なことが、ふとしたきっかけで均衡を崩された途端(とたん)に痛みを伴う。過去や可能性の未来が、雅を脅迫する。
 雅は、セックスを愛情を確認するための行為として直接に結びつけることができない。どうしても生殖という目的がちらついてしまう。あんなコミュニケーションの取り方を、雅は知らない。
 子どもが欲しいわけでもないのに――そう考えると、捉えどころのない罪悪感に(とら)われて呼吸もままならなくなってしまう。
 流れた涙が耳をくすぐった。
 博が悪いわけではない。触れられて不快なわけでもない。博のことは大好きだし、だからこれまでに幾度か抱き合うこともした。
「私、神経質なのかも……」
 こころとからだがばらばらになっていく。
 潔癖という方が正しいのだろうか。どちらでもいい。どちらでも、或いは両方だとしても、雅が博を拒絶している事実は変わらない。
 本当に――
 ――あの行為が生殖のためだけにあるものならどんなにいいだろう。
「みーちゃんはママになるのが怖いんだね」
 小鞠の呟きは的を射ていた。
「みーちゃん、博さんとえっちしたくなったこと、ないの? 抱いてほしいって思ったこと、一回もない?」
 抑えきれず、すすり泣く。
 答えられなかった。
 そんなふうに、思ったことが。――一度もなかったからだ。一度たりとも。そうでなければ、そんなことないと言える。その前に、きっとこんなふうに悩んだりしない。
 雅には、恐怖心の方が強い。
 セックスに対しても、子どもを持つということに対しても。
 目もとを覆って静かに泣く雅に、小鞠も泣きそうに顔を歪める。同じような環境で育ってきて、何故こんなにも違うのか。
 ――違う。同じような環境では育っていない。
 小鞠が伸び伸びと遊び育てられていた頃、雅はひたすらな静寂の中で厳格さに育てられていた。
 その相違なのだろうか。でも、かのんや蒼、圭一郎はいつだって雅を愛し、大切にしていた。小鞠との格差はなかったように思う。小鞠もいつも雅を好きで、憧れていて、雅もまた小鞠をかわいがってくれていた。それだけではいけなかったのだろうか。どこか、何かを変えていなければいけなかったのだろうか。
 雅は恋に怯え、愛を信じようとしない。自分がどれだけひとを思い遣れているのか、どんなにやさしくできているのかを、さっぱり理解していない。
 こんなに弱っている雅を見るのは、彼女が学校に通っていた頃以来だ。
「みーちゃん」
 あのバカは何やってんだ、と胸の中で毒づいた。あのバカというのは、取りも直さず博のことだ。小鞠は雅を好きだから、雅が好きだという博を好きなのだ。博がいいやつだというのは認めるが、雅を泣かせるようなら話は別になる。
「セックスするのもしないのも、悪いことじゃないからね。赤ちゃんをうんだりうまなかったりっていうのも、悪いことじゃないからね。婚姻届出したら出産の義務を負うなんて、そんなことないからね」
 こんなことを言っても、どうにもならないのだろう。その程度、小鞠にもわかっている。
 これは恐らく、雅の根本に関わることなのだ。言葉でどうにかできる問題ではない。雅という人間を構成するもの。彼女を作り上げる一点の傷、陰鬱(いんうつ)(かげ)り。
 それでも、小鞠は精一杯を口にした。
 小鞠は、雅が幸せならいい。
 伯母に責められていた幼い頃、小鞠は雅の言葉に助けられた。
 ――こまちゃんはいい子だからね。悪い子なんかじゃないよ。
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