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 伯母の威圧感、言葉――存在に怯え、泣くたびに、雅は小鞠を抱きしめてくれた。いい子だよ、悪い子じゃないよ、と繰り返してくれた。綺麗なハンカチで涙を(ぬぐ)ってくれて、ないしょだからね、と悪戯(いたずら)っぽく笑って、幼い子どものてのひらでも包める小さな駄菓子をこっそり渡してくれた。
 うれしかった。
 まだ上手に回らない舌で、それでも一生懸命「おねえちゃんありがとう」と言った。
 その頃雅は祖母の家で育てられていたから。
 母親であるかのんは雅を愛してはいるけれど、子どもを育てることはできなかったから、雅はかのんの実家で育てられていた。医師という肩書でかのんの見合い相手に選ばれた蒼は望んでも規則的な生活はできないし、圭一郎はまだまだ駆け出しの建築士だった。そもそも、圭一郎はものの数に入れてすらもらえない。
 鏑木(かぶらぎ)家は良くも悪くも序列のはっきりした家風だったから、姉は姉と呼ばなければならなかった。
 だから小鞠は雅を「おねえちゃん」と呼んだ。
 伯母の気には入らなかったらしい。
 彼女にとって小鞠は他人なのだ。それも、妹夫婦の中に当然のように入り込んできている他人。邪魔者としか映らなかったのだろう。
 まだなんの事情も知らなかった幼い小鞠にはわけがわからなかった。雅は大好きなお姉ちゃんなのだ。一緒に住んではいないけれど、大好きなお姉ちゃん。祖母は少し怖かったけれど、彼女は小鞠を排斥(はいせき)することはなかった。
 小鞠は週に一度雅に会えるのを楽しみにしていて、会って遊んでもらえるのが嬉しかった。
 おねえちゃん、と呼んだら叱られた。
 姉には姉と呼ぶと教えられたからそうしたのに、叱られた。
 小鞠は戸惑った。どうしたらいいのかわからなくなってしまった。雅を呼びたいのに呼べなくて、困惑や不安や心細さばかりが募っていく。打開策を講じられるほど成長しておらず、何より伯母の前では萎縮(いしゅく)した。
 泣くしかなかった。
 名前を取り上げられてしまったのだ。訴えようにも言葉にならない。そのもどかしさに泣いた。
 ――名前で呼んでいいよ。
 雅がそう言ってくれた。泣きじゃくる小鞠を抱っこしてあやしながら、
 ――お父さんたちやお母さんもみんな名前で呼び合うんだから、こまちゃんも私を名前で呼んでいいんだよ。
 『みやびちゃん』、と上手く発音できなかった。だから『みーちゃん』になった。お母さんにも教えてあげてね、とお土産を持たせてもらったのが嬉しくて誇らしくて、かのんに伝えた。かのんも雅をそう呼ぶようになって、――自分はいらない子じゃないんだ、と思えた。
 小鞠は雅がしてくれたことを返しているに過ぎない。これくらいで返せる程度ではないものを、小鞠は雅からもらった。ただ、雅はしてもらったことは決して忘れないのに、自身が他人にしたことはすぐに忘れてしまう。
 その違いなのかもしれない。
 すべてをひとりで決め、誰にも頼ろうとしない気丈な姉。その姉がこんなにも小さくなって泣いていることが、小鞠にはどうしようもなくつらかった。
 ――あのバカは何やってんだ、畜生ッ。
 博の横っ面を、思いきり(こぶし)で張り倒してやりたい気分だった。自分がすることではないとわかってはいる。それでも。
 まだ雅が泣くようなら。
 博があまりにも雅に触れられないようなら。
 『大好きなお姉ちゃん』を守るのに、どうして相手に噛みついてはいけないのかがわからない。
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