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リフレクト






 びりびりと痛む(ほほ)を時折()でつつ、食器棚の抽斗(ひきだし)を順に乾拭きしていく。時計を見てみると、夜の十一時。掃除をする時間としてはいささか変わっている。
 その前に(ひろし)は父親の恭静(きょうせい)に、
 ――仕事する気がないんなら帰って寝てろ!
 と、非常にわかりにくい彼流の心配をされ、最近(みやび)の元気がなくてというようなことを口走れば、
 ――アホの小倅(こせがれ)が! 嫁さんほっぽってこんなとこで何やってんだ!
 と情け容赦の欠片もなく頬を(つね)り上げられた。こんなとこがどんなとこだったのかというと、職場だったのだが。そんな彼は長男の(ひびき)(せがれ)、次男の博のことを気まぐれに小倅と呼ぶ。
 磨いたナイフやフォーク、スプーン。(くも)りのなくなったそれらを、もとのように抽斗に戻していく。
 最近の雅は、とても不安定だ。(うつ)状態にあると言っていい。ワインも焼酎も見る間に減っていくし、この間はウイスキーのボトルの半分が一晩でなくなっていた。
 もともとアルコール類は好きだから、逃避というよりも、好きなものを取り入れて元気を出そう――という、自分なりの、鬱にストップをかけるためのものかもしれない。雅は不味い酒は飲まない人間だ。
 それに――
 昼間の雅を思い出す。熱っぽく()れた(まぶた)。きっと泣いていた。抽斗を閉めた指先に、雅の瞼の頼りない感触が甦る。
 雅は博を傷つけようと必死だ。
 ことあるごとに(とげ)の多い言葉を博に投げつける。そのくせ、言ってしまったあとに泣きそうになって(うつむ)き、何か言いたげな沈黙を空気に持たせた。きつく唇を引き結んで、じっと一点を見つめて――ひどく、追い詰められている。
 ふうと一息ついてリビングに戻り、窓を開けた。花の香を連れて、夜気(やき)が部屋に流れ込んでくる。夜もずいぶんやわらかくなった。もう春なのだ。
 薄紅色の花びらが、(にわ)かに強く吹いた風に舞った。
 そういえば、キスもしていない。
 雅は正直だ。
 自分を偽ることができないから、ひとに嘘をつくのも下手だ。今夜だって、泊まっているのは実家に違いないだろうが、偶然小鞠(こまり)に会ったというのは嘘だろう。雅は嘘をつくとき、常よりも舌足らずに喋る。
 いつもなら気にならない時計の規則正しい音に、焦燥感を掻き立てられた。こんなふうに掃除なんてしている場合ではないのにという思いと、だからといってどうしたらいいのだろうという困惑。
 博は雅を知らない。
 ――この間も。
 思い出しながらジャケットの袖に腕を通し、玄関を出た。
 博にとって、雅は計り知れない存在だ。
「もう死ぬこと考えてるの?」
「いつだって死ぬときのこと考えてるよ」
 そう言って笑う雅を、博はいつも複雑な思いで見つめる。
 彼女がどこを見ているのか。
 何を見ているのか。
 どんなことを考えているのか。
 それを想うと、不安だ。
 婚姻という枠組み、その中に収まってなお、雅は遠くを見ようとする姿勢を崩さない。
 自由なのだろう。
 雅は「本当に自由なひとはどこに行かなくても自由だよ」と笑うけれど、彼女が言わんとすることは博もなんとなくわかるけれど。
 でも、彼女は不自由とは確かに(へだ)たっている。
 地や(とき)(とら)われることがない。雅を捕えるのはいつだって彼女自身の言葉で、他者からの束縛などはものともしないのだ。彼女は自身にとって毒だと判断した瞬間にそれらを払い除け、斬り捨ててしまう。
 それができるのは、自身の足で立っているからだろう。
 ――そんなところに()かれたのも事実なのだけれど。
「あ、やっぱり。柘植(つげ)、久しぶり」
有栖川(ありすがわ)
 思いもよらない深夜の声にふり向くと、中学からの付き合いになるアリスガワアリスがいた。
 すごい名前だ。一度聞いたら忘れられない。下の名前は昭和新山(しょうわしんざん)の別名、有珠山(うすざん)と同じ字を使い、有栖川有珠(ありす)と書く。中学生の時分に同じクラスになったとき、覚えやすいでしょ、と屈託(くったく)なく笑った有珠の顔を、博は未だに鮮明に覚えていた。
 本屋の隣の小さなラーメン屋。少し高いが、そのぶんチャーシューが美味い。
 カウンターの隅に腰掛けてラーメンを(すす)っていた博は、まさか声をかけられるなどと思っていたはずもなく、間抜けな声を上げてしまった。
「やあ、どうしたの、こんな夜中に」
 それはお互い様だろう。
 有珠は学生時代とちっとも変わらない穏やかな笑顔で、博の隣に腰を下ろした。
 中学生の頃から物静かで、無駄な口を()かない人間だった。けれど、大切な場面で簡潔に述べる意見はいつも的を()、説得力があって、それでいて他人の意見も柔軟に聞き入れるという、――いい加減と端的紙一重の表し方をすれば、有珠は頭がいい。博は(ひそ)かに、有珠のような人物は探してもそうそう見つからないだろうと思っている。
 その有珠も、博よりも三年だか四年早く結婚した。
 有珠が薄手のジャケットを脱いで軽く畳み、膝に置いた。ラーメン屋のカウンター席、背凭(せもた)れはない。
 彼がこんな、日常と地続きの場所にいることが、なんだか不思議だった。場違いに思える。それはひとえに彼の類稀(たぐいまれ)なる容貌のためだ。
 有珠は天工の(みょう)としか表せない顔立ちをしている。はじめて彼と出会ったとき、博は同性ながらに有珠に見惚れた。
 白皙(はくせき)美貌(びぼう)という言葉でさえ間に合わない(おもて)が現実にあることも驚愕(きょうがく)だったし、それが自分の目の前で動いて喋っているというのも驚きだった。人形であればまだなんとか納得もできたのに、こともあろうか有珠は呼吸をして生きているのだ。
 (こと)薄暮(はくぼ)の中で見るときの彼は、非現実的に美しかった。
 悲劇の結末を約束された、誰からも忘れ去られながらも決して()ちることはない、眠り姫の亡骸(なきがら)のようだった。古びた童話の挿絵(さしえ)のようなのだ。長い(まつげ)を伏せた微笑は恐ろしいほどだった。
 性格も至って温厚な彼は異性からも当然注目の的だったが、本人は彼女たちに見向きもせずに、結局少し変わった女の子と一緒になった。
 彼がずっと大切にしてきた、幼馴染(おさななじ)みの女の子と。
 薄い縁の眼鏡の位置を直す有珠の横顔をしげしげと眺める。
 落ち着いた印象が強くなった程度で、ほとんど変わっていない。有珠の横顔はやはり端正で、少しだけ女性的だ。
「何、ひとの顔じっと見て。何かついてる?」
「いやー……全っ然変わってないなあ」
「柘植だって」
 くすくすと笑い、有珠は日本酒と炒飯(チャーハン)を注文した。そういえば、有珠は酒豪(しゅごう)なのだった。博もそれなりに強い方だが、有珠に付き合うと翌日の起床は困難を極める。もちろん無理強いされるわけではないのだけれど、用心深く注意深くと二重三重に気をつけているにもかかわらず、ペースが狂ってしまうことが多い。彼と飲むには経験が必要だ。
「で、どうしたの。奥さんと喧嘩(けんか)?」
 あっけらかんと有珠が()く。答えたくない。
「有栖川は?」
「んー? 僕は散歩」
「……」
「本当だよ。彼方(かなた)(さかき)椿(つばき)と連れて里帰り中。はしかにかかっちゃってね」
 博が疑いの目を向けても、有珠は笑って受け流した。
 彼が大切そうに呼んだ彼方という名の持ち主を、博も知っている。有珠の幼馴染みだったから、……彼を通して彼のことを想い語った仲だから。
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