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「サカキとツバキって」
「子ども。双子。ちゃんと柘植から出産祝いももらったんだけど、会ったことないから印象薄い? かわいいよ、榊が男の子で椿が女の子。椿の方がお姉さん」
「ああ……いや覚えてはいる……けど。そっか、榊くんに椿ちゃんだったっけ……。いや、でも、うん、そうか……」
 どういう反応を返したらいいのかわからず、肯定も否定も感嘆もない妙な声が出た。
 学生服を着て、数学のこの問題がわからないだとか、図書室に新しく入ったあの本が面白いだとか。
 そんな話をして過ごした級友が、今ではもう二児の父で、出産祝いを贈りもしたのに、博は不思議な感覚に(とら)われた。
 同じ時間が流れるのは、学生の間だけではないのかという、思い。卒業してすべてが自己の責任と決断の(もと)になされるようになると、その人間に流れる時間はそれぞれに明確な差異が表れてくるのだろうか。
「……あの一奈(たかな)さんがね……」
「タカナじゃなくて。もうアリスガワ。僕の愛妻だから」
「ああそう、アリスガワ夫人ね」
 苦笑して言い直す。未だに新婚状態のようだ。とはいえ、学生時代から仲は良すぎるくらいによくて、恋人同士でないというのが嘘のようだったから、特別に変わったものがあるわけではないのだろう。
「なんていうのかな、こういうの。袖振り合うも多生(たしょう)の縁っていうけど」
 博が視線を向けると、有珠は日本酒の満ちた杯を手の中で(もてあそ)んでいた。
「柘植や彼方は、僕にとっては袖振り合うどころの相手じゃないわけでね。だけど柘植にとっては、――少なくとも目に見える事実としての関係は、彼方は旧友っていうだけだろう? それが――」
 そこで止め、小さく笑う。覚えてるかなあ、と博の方を向いた。
「数学の図。二つ以上の円が重なり合ってて、その重なった部分がお互いの円の共通部分っていう、あれ」
「覚えてるよ。そこの単元でてこずった問題があったから」
「ああ、うん。あれは苦労した」
 質素なグラスを傾けて、有珠が笑う。
 有珠はよく笑う。どちらかというと微笑の方が正しい。いつも微笑んでいるような空気をまとっていて、片田舎の内科医という位置づけはよく似合っているような気がした。
「それをね、思い出すんだ。僕が中心に立っている円があって、それにどこか一部が接した、(ある)いは重なった円が幾つもあって、その中心にはそれぞれ誰かが立ってるっていう図を想像するとね。なかなか不思議な感じだよ。僕の――僕っていう円と触れ合っていない部分は、そのひとの、僕が知らない領域なわけだろう。そういうものがあるのはわかるのに、その部分を僕が見ることはできないんだ。僕が認識できるのは、いつだって僕自身の円だけなんだよ。……わかるかな」
 それぞれが有する世界。認識し得る現実。誰かのこころの中や、誰かの有するそれらを覗くことは不可能だ。
「不確定性理論、思い出すなあ。なんだっけ、思考実験」
「ハイゼンベルクの思考実験だね。観測するという行為自体が対象に影響を与えるっていう……小さな、小さなものだからこそ差が開く」
「……人間は大きい気がしてたんだけどなあ」
 気のせいかもしれない。本当は、ものすごく小さいのかもしれなかった。
 だって、こんなにもわからない。
 有珠がふっと、微笑のような溜息(ためいき)をついた。
「自分の意識もそうかもしれないね。無意識は意識できないし――認識しようとした無意識は、その時点で無意識じゃなくなるからなあ」
 有珠が炒飯をもぐもぐする。博は(めん)を啜った。
「あー、有栖川と会うってわかってたらなると残しといたのに」
「相変わらず練り物だけ苦手なの?」
「ものによる」
「なるとは?」
「好き」
「じゃあいいじゃない」
「いや、昔なると食べてもらったことあったなあって思い出して。ラーメンは好きだけど、うどんのなるとはちょっと苦手」
「ああ、甘かったり甘辛かったりするのが苦手なんだ」
「うん」
 チャーシューの最後の一枚を食べる。ここ『趙雲(ちょううん)』のチャーシューは分厚(ぶあつ)く、大きい。
「おいしそうだなあ。今度来たら僕もチャーシュー麺頼もう」
 炒飯もしっかり食べながら言う有珠に、博は(まゆ)を寄せてみせた。
「先に言えよ、一枚分けるもしないほど食い意地張ってないぞ」
「そこは張っとかないと駄目だよ。すぐ死んじゃうから」
 なんだかがっくりきた。
 有珠の言葉のどこかに引っかかったのか、それとも、これまで我慢できていたものが不意に崩れてしまったのか。
 ああ、と溜息が()れ出る。
 信じられないほど切実な色の嘆息(たんそく)だった。
「……俺もう何話してたか忘れたよ……すごい真面目に話してなかったか?」
 有珠は博の唐突な消沈に気づかないふりをしてくれた。
「僕はいつも真面目だよ。話してたのは数学の円とハイゼンベルクの思考実験、つまるところ袖振り合うも他生の縁」
「ああそう、そうだ」
「彼方を見てるとよくそう思うんだ。円と円。重なっている範囲は、ほかのひとたちからすれば広く見えるんだろうけど……錯覚だよ。僕の知らない部分がすごくたくさんあってね。僕がそれを知りたいと思うからこんなこと考えるんだろうけど」
「……俺も似たようなもんかも……」
 頼りなく(つぶや)いた。
 彼女がどこを見ているのか。
 何を見ているのか。
 どんなことを考えているのか。
 知りたい。
 教えてほしい。
 ――俺といるときだけでいいから、俺の方をちゃんと見て。
 求めてほしいのだ、雅にも。彼女は何も望まない。博と一緒にいることも、助けも、愛情すらも。
 がくんと突っ伏した。居眠りを決め込む格好の博に、有珠はどうしたの、と声をかける。
 お愛想(あいそ)声音(こわね)だ。特に関心は払っていないらしい。
「俺、自分がこんなやきもち焼きだとは思ってませんでした」
「ああ、どっちかっていうと無関心が原因で女の子に引っ(ぱた)かれるタイプだったよね。見たことはないけど」
「引っ叩かれたことはないよ。ふられる原因それだったけど」
 事実、博は相手の女性から無関心だと(なじ)られ、本当に自分のことを好きなのかと問い(ただ)された。そして大抵その場でふられた。
 関心があると答えても、好きだと言っても、自然体の博がそもそも縛らないし縛られる性質でもないから、どうにも伝わらない。
「どーしよ」
「どうしようもないねえ」
 グラスが傾く。有珠が飲んでいると、まるで水のようだ。
「俺って独占欲強いかも」
「そうみたいだね」
「俺の愛妻、そういうの大っ嫌いなんだ」
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