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「気の毒に。離婚届なら役場に行ってよ」
 縁起でもない。なんてやつだ。
 それでも、雅がそれを望んだなら。
 ――そういうことではない。博は、雅のすべてを包める広さや深さが欲しい。傲慢(ごうまん)なことだとわかっていても、欲しい。
 雅が痛がらなくてもいいように。怖がらなくてもいいように、彼女が泣きたいとき、見えないふりをできるように。
「……柘植」
 (さや)かな声だった。
「僕も嫉妬深(しっとぶか)くて……すごく独占欲強いよ。……そう見えなくても」
 顔を上げると、有珠は頬杖(ほおづえ)をついていた。皿もグラスもいつの間にか(から)で、蓮華(れんげ)も皿に沿わせて綺麗に(そろ)えられている。
 清らかな声で(こぼ)れた本音が欲に(まみ)れているのだから、いくら現実離れして美しくても、有珠は人間なのだとわかる。そして、彼の妻は、有珠の人間らしい(もろ)さを誰より深く知っていた。
 愛してもいた。
 博が知っているのはそれだけだ。
 有珠と彼方がどんな軌跡(きせき)辿(たど)って現在に着いたのかを博は知らない。博は有珠にも彼方にも関係していたけれど、有珠と彼方の関係には関係を持っていなかったからだ。
 そして有珠も、博と雅の関係からは遠いところにいる。
 ああ、確かに、不思議だ。
 そのひとの持つ世界など何も見えはしないのに、そのひとに、自分の知り得ない世界があることだけは明確にわかる。
「自分の円と重なってない部分は、どうしたって直接的に自分が関わることってできないんだね――……」
 有珠は少し寂しそうに苦笑した。
 独りごちる彼には、博にはもちろん、彼方にすら触れさせていない部分が多くありそうだったけれど、それは博が言及することではなかった。
「何を考えてるかわからないって、そういうことなのかなあ」
 相手が、自分の知らない世界を見ていること?
 重なっていない部分に、こころが飛んでいってしまっていること?
「愛は自己と他者を同一化しようという願望だっていうの、あったね。二者の境界線を曖昧(あいまい)にしようっていう試みなのかな。独占欲とか嫉妬とか、――他者を自己の内に包括(ほうかつ)しようとしていて、それがなされないためのジレンマやフラストレーションではあるかもしれないね。愛って言葉にはそういう願望も含蓄(がんちく)されてるのかな」
 博も頬杖をついた。食べ終わったラーメンは美味かった。チャーシューもやっぱり美味かった。
「カレとかカノジョってさ」
 ぼんやり言うと、有珠はうんと(うなず)いた。
「皮肉な字、書くよなあ」
「……そうだね」
 彼。
 彼女。
 有珠は、カウンターの上に指でその字を書き、しみじみともう一度、そうだねと言った。
「彼っていう字だけどね。形声文字なのは知ってるだろう? 意符(いふ)のぎょうにんべんに、音符のヒ、――皮っていう字、それを加えて別れ道の意を示すんだ。部首としてじゃなくて、文字として、ぎょうにんべんの字はテキって読んで道を示す象形文字だしね」
 懐かしい。
 学生時代、弁当をつつきながらの会話は、いつもこんな具合だった。
「……彼って、遠くのものを指すときに使うんだったんだよね」
 彼とか、彼女とか。
 恋人を指す際に使うこの言葉は、本来遠くのひとを指し示すものなのか。近くにいるはずなのに。誰よりも近しい位置にいるはずの相手に、この言葉を使うだなんて――
 ――これ以上があるだろうかと思うほどに暗示的だ。
「男と女の間には、深くて暗い川がある……ってやつだね」
「ああ、あったなそんな言葉が」
「なかなかいいと思わない? まったくもってそのとおりだ。――で、」
 有珠は微笑を含んだまま、博を見遣(みや)った。
「結局なんだったの」
「……ちょっと怒らせてしまいました」
 有珠は、仲良いねと笑った。博は、お陰さまでとおどけてみせる。
 この瞬間、博は(まが)いようもない大嘘つきだった。
 ラーメン屋を出て空を見上げると、実に月のいい夜だった。
 小川(おがわ)未明(みめい)の、赤い蝋燭(ろうそく)と人魚の月。アンデルセンの絵のない絵本の月。
 真ん丸い乳白色の月はやさしくて、ふと、博の脳裏に、月光の降る部屋で()ねて眠っている雅の姿が浮かんだ。
 どうか、(こご)えていなければいい。
 そう祈った。



 今日は仏滅だっただろうか。
 吐いた瞬間ふわりと凍り、すぐに溶けゆく息遣いを感じながらの帰宅だった。深夜だけれど肌触りはやわらかい。これで家に微笑む雅がいたらそれだけで痛いくらい幸せなのに、現実はそうではない。
 門扉(もんぴ)に凭れて立っていたのは小鞠だった。
「小鞠ちゃん」
 ふ、と息をつく。
「女の子がこんな時間にひとりなんて危ないよ。まだ冷えるし」
 白くなっている彼女の頬を見て言う。小鞠はなんの遠慮も隠し立てもなしに、博を(にら)んでいた。
 言われる内容などわかっている。
 責められる心の準備など、とうの昔に整っている。
 もしかしたらそれは雅が雅自身の言葉で言わなければならないことかもしれなくて、たとえ小鞠がどんなに(つぶさ)に知っていても、彼女は本来であれば口を出す場面ではないのかもしれなかった。
 それはわかっているのだろう。小鞠は子どもではない。けれど雅が言葉を失ってしまっていることは、きっと博よりもよく知っている。
 小鞠の天秤(てんびん)はお節介(せっかい)に傾いたのだ。
 余計なお世話に傾いたのだ。
 控えなければいけない口出しと、常識や分別とを天秤にかけた。そしてその結果、雅の涙一滴分だけ余計な口出しに傾いた。
「俺が帰ってこなかったらどうするつもりだったの。この辺りなんて夜中になれば真っ暗でひとも通らない」
「そんなの見ればわかるわよ」
 不服そうな声がぼそりと聞こえた。
「あと三十分待って帰ってこなかったら帰るつもりだった。ちなみにずっと突っ立ってたわけじゃない。車の中にいた。博さんが見えたから降りてここに立ったの。五分も経ってない」
 星の音が聞こえそうな気がした。
 月の満ち欠けに触れられる気がした。
 口にする言葉すべて、瞬時に氷に変わり砕けそうな気がした。
「みーちゃんがいないあんたの家になんか上がらない」
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