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 唐突ではあったけれど、わかりやすい拒絶と警戒だった。声は(うな)るようで、獣の威嚇(いかく)そのものだ。
 小鞠は博を睨み据えていた瞳を伏せた。ぎりぎりと音がしそうなぎこちなさで(うつむ)く。
「ねえ」
「うん」
「殴っていい?」
 寒い。
 指が冷たい。
 右手を握りしめる彼女の左手の指先は色を失っている。俯いているから表情は見えないけれど、想像するのは容易だ。
「いいよ」
 言葉と吐息は白く曇った。小鞠がぐっと唇を()み、震える声と一緒に睨み上げてくる。
「簡単に言わないでよ。馬鹿にしないで」
「馬鹿にしてなんかない。本気で言ってる」
「やめてよ。ほんとに殴りたくなる」
 ――声も。
 唇も震えて、肩だって震えている。色素の薄い瞳が濡れて、揺れている。今にも泣きだしてしまいそうだ。
 小鞠はそうしない。わかっている。だから博は頷いた。自分が殴られることで感情が晴れるなら――なんて、偽りとはいえ美しく見える自己犠牲のような考えはちらとも頭を()ぎらなかった。
 とても短絡的で逃避的だけれど、欺瞞(ぎまん)に満ちているけれど、――そんなこと自分でもわかりきっているけれど、小鞠に対して能動的に何かできるのかと問われたら何も浮かばないのだ。
「殴ってもいい?」
 最後通告だ。
 零れる星明かり。ああ、ほんとうに。
 ――きれいな夜だ。
「いいよ」
 答えた瞬間、頬に衝撃が走った。冷えて硬くなったてのひらは板のようで、頭の芯がじんと(しび)れた。
 はっ、と大きく小鞠が息をつく。
「……」
 女の子の手はやわらかいから、引っ叩かれても痛くないような気がしていた。ふにふにで、骨だってあたためられて溶けかけた細い千歳飴(ちとせあめ)程度の強度しかないように思えて仕方がない。強い握手を交わしただけで、ぐずりと潰れてしまいそうで時々不安になってしまう。
 もちろんそんなことはない。
 叩かれた頬は確かに痛かった。塵芥(ちりあくた)ほどの容赦も感じられない打ち方だったのだから当然だ。
 でも、それも気のせいかもしれない。
 叩かれたら痛いという知識と経験を持っているから、それに従った感想が出てきただけなのかもしれなかった。肩で息をしている小鞠の方がよほど心配だ。たった今博を殴った手をもう片方の手で握りしめて、唇を噛みしめて、ひどく痛々しい。
 説明しなければいけないことも、言っておかなければいけないこともある。小鞠はそれを求めてやってきたのだろうし、応じるのが適切だと思う。
 それが、今の博が彼女に示せる唯一の誠意だ。
 ――そう。彼女に示せるものが何も思い浮かばないなんて嘘だ。
 殴られるのではなくて。
 殴ってくれていいなんて、そんなの能動とは言えない。博にできることはある。
 ただ、それが痛いだけで。
 小鞠に打たれた頬よりもはるかに痛いだけで。
 今の博は、卑怯で、嘘つきで、臆病だ。
 憤怒(ふんぬ)形相(ぎょうそう)の小鞠を見た瞬間、博の胸に浮かんだのは雅だった。
 雅と小鞠は姉妹なのだから当然といえば当然だろうが、彼女たちには血縁関係がなく、面差(おもざ)しはまったく異なる。他人の空似ですらない。小鞠の顔から雅を想起させる因子はひとつもない。
 けれど、彼女たちはいつも、間違いなく姉妹だった。
「あたしが」
 小鞠の声は強弱も大小のバランスも欠いていた。
「あたしがこんなことするのは筋違いだってわかってる。でも、みーちゃんは博さんを殴らない。そんな短絡的なことはしない。だから、……」
 ぎゅっと噛んだ唇が震えた。そのまま再度俯いた小鞠の目から、ぱらぱらと(しずく)が落ちていく。
「――こんなやつ、殴ってやればいいのに……!」
 ――みーちゃん、ごめんね。
 ひどいことを言っている。侮辱だ。博に対しても、小鞠が守りたいと思っている雅に対しても。
 自分と博を信じて決断したのは雅自身なのだ。
 わかっていても、止められなかった。
 ぬくもった毛布のようなこのひとに、突き抜けて明るい青空のようなこのひとに、どんな言葉を投げれば届くのかがわからない。歯痒(はがゆ)い。
 博の内側に響く言葉が欲しい。せめて知りたかった。小鞠にわからなくてもいい、雅に理解できる反響を得られるひとこと。
 どこにもない言葉を一心に(つか)もうともがく。両手は何も掴めないまま何度も(くう)を切り、その回数だけ涙が零れた。
 ――博さんはわかってない。
 ただやさしく受け止めてやるだけでは、雅は戸惑うことしかできない。だって雅は博を好きなのだ。結婚してもいいと思えたほど好きなのだ。
 今の雅は持て余した感情にこころとからだを無理矢理引き()がされて、それらが右往左往してしまっている。
 ――強引に思い知らせてやればいいのに。
 好きなのだ愛しているのだと言って、だからあなたが欲しいのだと言って、壊れるくらいきつく抱きしめてやれば雅は理解できるのに、博は彼女を思い遣ってそれをしない。その結果が雅の傷だなんて、小鞠からすれば博は残酷だ。
「中途半端にしか抱きしめられないならみーちゃん離してよ。あんな泣かせ方しないでよ!」
 ――本当に、
 ――お節介だ。
 余計なお世話。言いがかりだ。泣いているのも雅で、苦しんでいるのも雅だ。無情な言い方をすれば、雅が勝手にそうなっているだけだ。
 ――こんなのあたしが言うことじゃない。
 でも、言わずにいられない。
「小鞠ちゃんには申し訳ないけど、離さないよ」
 激する小鞠を前に少しも感情を乱さず、博は静かに言った。
 小鞠のすべての痛みが失われてしまうほどの、あまりの静けさ。
「本人が本人の意思で俺から離れるって言わない限り、俺からは死んでも離さない」
 博は雅に、四度プロポーズしている。
 一度目は、何故プロポーズされるのかわからないと言われた。付き合っていると思ってもらえていなかったらしい。幸か不幸か求婚は非常にわかりやすい告白だったから、それで恋人と認識してもらうに至った。
 二度目は、結婚する気にはどうしてもなれないから、他を当たってほしいと言われた。けんもほろろ。
 三度目には「あなた馬鹿でしょう」と切り捨てられた。
 にもかかわらず、雅は博を避けることもなく隣に座ることを受け入れてくれていた。
 ――私はあなたに対してなんの権力も持っていないから、(そば)にいたいならいくらでもいてくれて一向にかまわない。でも、あなたも私に対してなんの強制力も持っていないから、ひとりになりたいと思ったときは、あなたとは距離を置かせてもらうよ。
 概要としてはこんなところだ。
 とても素っ気なく乾いた台詞(せりふ)に聞こえるけれど、その頃にはもう、なんとなくではあれ彼女の人となりの端っこを掴んでいたから、嬉しいと思うばかりだった。
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