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 傍にいてもいいと、本人が言ってくれたのだ。
 好きなだけいてくれて構わない、と。
 四度目のプロポーズ、「これからずっと、お互いに誤解を深め合っていくことに興味はない?」と訊いたときの雅の笑顔が忘れられない。彼女は屈託なく笑って、それから泣いた。
 博は卑怯で嘘つきな臆病者だ。雅に触れられないのは、自分の不甲斐(ふがい)なさが突き刺さってくるからだった。わかっているのに雅に触れるなんてできない。触れれば雅が傷つく。
 雅はとても強いから、とても傷つきやすくて弱い。
 小鞠の大きな瞳から、一気に涙が(あふ)れた。未だ空中にある水のかたちで大粒に零れていく。
「みーちゃんが離れるって言ったら離すの? (すが)りつく(みじ)めさも持ってないわけ?」
「縋りついて戻ってきてくれるなら、いくらでも縋りつく。惨めでも無様(ぶざま)でもいい。……でも、わかるでしょ。俺が言わなくても」
 図星だった。
 離れると言ったなら、雅はどうしようが離れるのだ。一度(ふところ)に入れたのならなおのこと。
 雅にとっては、決別も永訣(えいけつ)も愛情のうちだから。
 その程度のこと、博に言われなくてもわかっている。小鞠はきちんと知っている。雅は大好きで大切な、たったひとりの姉なのだ。
 ずっと自分を守ってくれた、小鞠のために身体に生涯消えない傷さえ残してくれた姉。
「雅を殺すくらいなら俺は離れる」
 ――雅の心を壊してしまうくらいなら。
 雅が涙さえ失ってしまうくらいなら、縋りつきたい惨めや無様、未練も愛情も、すべてまとめて、誰にも見えないところに隠す方がいい。
 そうして、ひとりで泣けばいいのだ。雅がどこかで笑っていてくれるのなら、博の心は壊れない。
「殺すなんて、そんな言葉、軽々しく使わないで!」
 (さえぎ)りたいのにできなくて、ほかに言葉も見つけられなくて、小鞠は泣き声で叫んだ。(まばた)きもできない。
 どうしたらいいのだろう。博が言っていることが、認めたくないくらいに理解できる。
 雅は今、博のやさしさに殺されそうになっている。彼のぬくもりに押し潰されそうになっている。
 でも、博は、そのことをほんとうに言葉ほどわかっているのだろうか。
「重いか軽いかは俺が決める。俺にとって雅は何より重い」
「なんであたしに言えるのに、みーちゃんに同じこと言わないのよ!」
 博の声がいつもよりずっと低い。けれども、それは怒りから来る低さではなかった。
 こんなふうに責められてまで、彼は眉を(ひそ)めてさえいないのだ。
 それが小鞠にはもどかしい。
 だから、小鞠には、雅がどんなふうに傷ついているのかも、博が雅をどんなに大切にしているのかも、両方わかる。
「今まであたしに言った全部、同じことを全部みーちゃんに言ってあげてよ。抱きしめて、どこにも行くなって、行かせないって自分を押しつけてあげてよ。それぐらい自分勝手なこと言わなきゃみーちゃんが理解できないのなんか知ってるでしょ? みーちゃん馬鹿なんだよ。理解できないと納得できないし、納得できないと頷けないんだよ」
「……」
「ねえ」
 何か。
 何か言って。
 あたしにじゃなく、みーちゃんに。
「ねえ」
 腕を伸ばす。博のジャケットの胸もとを握りしめる。
「傷つける覚悟がないならなんでみーちゃんと結婚したの?」
「好きだからだよ」
 返答は馬鹿にしたくなるほど単純だった。子どもの夢でもあるまいし、好きだからなんて、ただそれだけの理由でやっていけるほど結婚は甘くない。結婚を現実のものとして考えている人間なら、誰でも知っていることだ。これだけは夢は指先すら届かない。
 雅が知らないはずがなかった。わかっていないわけがない。
 それでも、雅は博と結婚した。
「どんな打算も雅の前では無力で、誤魔化(ごまか)しなんかきかない」
 だから、好きだからと言うしかない。
 ――好きだと、言うしか。
 小鞠は博のジャケットを握ったまま、反対の手でぐい、と乱暴に目を(こす)った。目尻が擦り切れる。
 息が白い。吐いた刹那(せつな)だけくちもとが(わず)かにぬくもる。
「博さんもしんどいの」
「少しね」
「痛い?」
「うん」
「……みーちゃんのこと、好き?」
「せかいでいちばん」
 ぽすっ、と腹を殴る真似をする。緩く握った拳で、駄々をこねる子どもみたいな仕草で。
「みーちゃんに改めてプロポーズするとしたらなんて言う?」
「そういうのは雅本人にしか言わないことにしてる」
「教えてくれなきゃ今日のこと告げ口するから。博さん殴ってやったってばらすよ」
 拗ねた口ぶりの小鞠に、博は笑った。
「雅には言わないで。言うときは直接言うから」
 星の音が聞こえそうな気がした。
 月の満ち欠けに触れられる気がした。
 小鞠は目を伏せた。
「……うん」
 口にする言葉すべて、瞬時に氷に変わり砕けそうな気がした。
「“貴女(あなた)しかいない”」
 ――ああ。
 どうしよう。
 そんな表情で、
 そんな声で、
 そんな馬鹿げた台詞を言うなんて。

 こんな告白をする人間が、世界に存在するなんて。

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