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東の果ての魔女、旅に出る オレンジ編






 玄関に足を踏み入れた瞬間に電話が鳴った。
 ――こんな時間に?
 (みやび)は眉根を寄せる。
 こんな時間というのは平日の午前十時。日付変更線を越えたところにいる友人か、さもなければセールスだろう。それ以外に思い当たる(ふし)がない。
 電話を好まない雅にはどちらにせよ億劫以外の何ものでもなかったが、前者である場合を考えると無視するのも気が引けた。靴を脱いできちんと(そろ)え、仕方なく受話器を取る。
「はい、柘植(つげ)でございます」
「あ。恐れ入ります。ホトハラと申しますけれども、雅さんはご在宅でしょうか」
 ……。
 ……ほとはら?
 誰だろう。
 電話の主は女性のようだった。が、雅の知り合いには男性にも女性にもホトハラなんて姓の人間はいない。
 ……はずだ。
 まったく思い出せず、どうしようなどと頭を()きながら「私です」と答える。
 すると途端(とたん)に、電話の向こうの雰囲気ががらりと変わった。
「雅! 久しぶり!」
 どうしよう覚えてない!
「あたし、和久井(わくい)よ。和久井美鳥(みどり)。覚えてる?」
「思い出した」
 しまった。忘れていたことが丸わかりの台詞(せりふ)だ。
 謝ろうとするより早く、美鳥は明るい声で「これから時間空いてる?」と()いてきた。
「えっと……」
 翻訳しなければならない記事があるのだけれど、それには締切りまでまだ余裕がある。家庭教師は月曜日だし、水曜日の今日は本当になんの予定も入っていない。そう告げると、
「じゃあ、会えない? 久しぶりにこっちに帰ってきてね、話したいこともあるしさ」
 ひとと会う気分ではなかった。なのに、
「うん、いいよ」
 気持ちとは裏腹な言葉が口を突いた。美鳥の勢いに引きずられたのだろうか。
「駅前の、一階がパン屋さんで二階がカフェになってるところで壁がピンクで、赤と白と青のビニールの屋根みたいのがかかってる店で会おう。今そこにいるの。待ってるからね、慌てないで来て」
 ちょっと待ってそれじゃわからない、と返す前に電話は切れ、雅は途方に暮れてしまった。



 ばんと冷凍庫を開けて、中から数日前に作ったグラタンの残りを取り出した。当然ながらかちこちに凍っている。トースターを開けてその中に入れながら、
統子(とうこ)さん、これは博さんが食べるんだからね」
 と言い聞かせた。
 統子というのはトースターに雅が勝手につけた名前だ。
 (かまど)の神は女神だと、昔から相場は決まっている。現代において竈に当たるのはコンロなのだろうけれど、このキッチンに限れば、主はこのトースターだった。雅の目にはそう映った。博が特別に愛しているのだ。だからここは彼女の領域だ。
 グラタンは、半解凍しておけば博が帰ってきてからすぐに食べられるだろう。
 ベーコンをかりかりになるまで炒めてきゅうりとレタスの上に乗せ、ラップをかけて冷蔵庫にしまう。にんじんと玉ねぎでコンソメのスープを作った。
 ダイニングテーブルを磨くように拭き、グラスとスープカップを逆さに置く。
 抽斗(ひきだし)を開けて、どきりとした。
 ナイフやフォーク、スプーンがすべて綺麗に磨かれている。博はひとりきりのときに、細かな部分の掃除をするのだ。
 広告の裏に『サラダとグラタン』とでかでかと書いて、リビングのドアにセロハンテープでびしりと貼ってやった。
「よし」
 (いくさ)にでも(おもむ)くような武士の顔をして(うなず)いてから、ふと気づき、その下に小さく『友人に会いに駅前に行ってきます』と書き足しておいた。



 和久井美鳥は、雅の中学、高校の同級生だ。
 とはいえ雅は高校を一年の初夏で自主退学したから、主に記憶は中学生時代のものになる。
 成績はいいが学校生活そのものがてんで駄目だった雅に対し、美鳥はまったくの正反対だった。中学生にして酒、煙草は当たり前、授業という授業を寝倒す美鳥は言うまでもなく教師の目の(かたき)だったが、彼女はそんなことどこ吹く風で学校生活を楽しんでいた。
 美鳥は何故だか雅を気に入り、雅はただなんとなくよく一緒にいたのを覚えている。
 そう、それから――雅が高校を中退するとき、「お金がもったいないよ」、「せっかく入ったのに」と見当違いの方向に(なぐさ)めるクラスメイトの中でたったひとり、
 ――あんたがそう決めたんなら好きにするといいよ。
 そう言って不敵に笑ったのも、彼女だった。
 その後、美鳥とは二、三度年賀状の遣り取りがあっただけで、一度も顔を合わせていない。その彼女に突然会えないかと誘い出されたことがなんとも奇妙な感覚だった。
 店はすぐに見つかった。
 なるほど、ピンクだ。ちょうど今の季節を表したような色。やわらかな淡い色が三月の光にほんのりと浮かび上がっている。
 空港に向かうバスの利用のために駅前にはよく来るけれど、周囲を散策してみるようなことはしたことがなかったから、こんな店があるなんて知らなかった。
 灯台下暗し。雅は足もとを見るのが苦手なのだ。
 一階のパン屋を素通りし、階段を上がる。円卓の散らされたカフェに、人影は(まば)らだった。
「あ」
 奥の窓際、黒い服。長い髪をひとまとめにして肩に垂らした若い女性が、ひらひらと手を振っていた。
 待たせちゃったかな、と時計を気にしながら足早に近づく。
「み――」
 みどさん、と懐かしい名前を口に出しかけて、硬直した。テーブルの前に突っ立ったまま、言葉を失ってしまう。雅のその様子を見て、美鳥はふふんと片方の口端を上げて左右非対称の笑みをつくった。
 学生時代と変わらない、不敵で不遜で自慢げな、けれど厭味(いやみ)には映らない自信の笑みを。
「どぅお、おデブになっちゃったでしょ」
「え――いやあ……おデブっていう……か……あの」
 失礼とは思いつつ、ついつい目が彼女の腹にいってしまう。
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