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 信楽狸(しがらきたぬき)だって目じゃない。いや違う。服の下に特大のバレーボールでも隠し持っているのではないだろうか。
 きつく絞られたウエストを誇っていた美鳥の面影もない、といっては失礼だ。くびれそのものは多分ある。彼女が言うとおりの『おデブ』なら、ここまで腹が出ていればくびれを思わせるラインは絶対にない。とはいえやはりくびれているとは表現し難いのだから、どう言ったらいいものか困惑する。
 雅の記憶の中、薄い肉がついていただけだったはずの美鳥の下腹は、見事にぽーんと張っていた。
「予定日はいつですか……」
 愕然(がくぜん)としてそんなことを(たず)ねてしまう。
 まあ座んなさいよ、と美鳥は指で椅子に座るよう(うなが)し、それに従った雅にメニューを手渡した。
「予定は来月ね。里帰り出産なもんでこのままこっちにいたいんだけど、ちょっとそういうわけにいかなくてねえ。だから一回帰るんだけど、あんたに会いたくなって。今住んでるのは大阪でね。あ、今さらだけどあたし、結婚したの」
 雅はシフォンケーキとレモンティーを頼み、おめでとう、とぎこちなく言った。なんだか口を上手く動かせない。一方美鳥はといえば、雅のそんな緊張など気にせずに、しかも数年間会っていなかったことをまったく感じていないようにちゃきちゃきと喋る。
「えっと、名前が?」
「うん。ホトハラってね、ホタルに原っぱのハラで、蛍原」
「へえ」
 感嘆の声を()らす。
「きれいな名前」
 呟くと、美鳥は少し驚いたように目を丸くした。相変わらず、と美鳥が笑う。
「あんたも結婚したんだってね。妹さんがあたしのこと覚えててさ、あの子記憶力いいね? そんで教えてくれたの。――おめでとう」
「うん……ありがとう」
 (ひろし)の顔がちらつく。どうして結婚したのだろう。
 後悔ではなく、疑問。自身を知るための鍵。
 美鳥はふふ、と微笑を(こぼ)し、椅子に背を(もた)れさせた。
「でも、結婚かぁ。まーあたしもひとのこと言えた口じゃないけどさ、あんたはあたしとは違う意味で結婚しないんじゃないかって思ってたから、ちょっと不思議だなあ」
 昔を懐かしむような顔を見せたあと、カップのミルクティーを含む。それを眺めながら雅は、ほかにどうしようもなく苦笑した。カップを戻した美鳥は、視線を落として溜息(ためいき)をつく。
「結婚って、そりゃ幸せではあるんだけどさ、なかったらやっていけないんだけどさ、でもやっぱりしんどいことも多いもんね。二人は世界、三人は社会とはよく言ったもんだなあって思うもん。結婚て社会と直結しちゃうじゃない。そこが正直ほんと面倒くさい。恋人同士のときみたいに夢ばっかりも見てられないし」
 ふう。
 美鳥が苦しそうに息をつく。
「子どもはかわいいし大事だけど、なんていうか――自分のペースとかなんとか……とにかく、自分のものがね。なくなるときがあるしね。小さい頃なんか特に。比喩じゃなくて物理的にほかのことなんにもできないし。……あたしってこんなだったかなあなんて。大抵旦那と喧嘩したときなんだけどね、そういうふうになるの。ほんと腹立つあのバカタレが。情緒不安定になったりすると、なんで結婚したんだろうって、そこまで考えが巻き戻ることもあるもん」
 子どもがかわいくて、大切な分苦しいよ。
 美鳥が言う。
 大事だと思ってるのに自分がなくなってく気がするなんて、すごく嫌な考えに思えるから、と。
 それからちらりと雅を見遣(みや)る。出産を二ヶ月後に控えているとは思えない、(まつげ)の整えられた目が、あんたは、と無言のうちに訊いていた。雅はまた、今度は別の意味で困惑する。無意味に髪に手をやった。
 ()でるまではいかない。雅は、自分を疑似的に慰める方法も知らないのだ。
「よく……わかんないの。最近すごく……みどさんのとは違う種類だと思うけど、情緒不安定で……自分で自分のこと、抑えられない。こんなん久しぶり」
 結婚したときにもう安心と言われたかと思えば、今度は早く子どもを産んで安心させてくれと言われる。
 そう訴えかけて、やめた。美鳥に言っても仕様のないことだ。雅だって思ったのだ。そういう風潮は今でも根深く残っているのだと。それなら、こんなことは口にしても(むな)しいだけだ。
 久方ぶりに会った友人に愚痴を零している自分が、とても滑稽(こっけい)に思えた。申し訳なくもあった。
「――ごめん。忘れて。なんでもないの」
「あんた、太ったね」
「は?」
 繋がっていない会話に拍子抜け、雅は頓狂(とんきょう)な声を上げる。美鳥はうっとりと夢見るように微笑んだ。ややきつい印象の目もとが(やわ)らぐ。
「中学とか高校に行ってる間のあんたは、ガリガリに()せて蒼白くて、今にも死にそうな顔してた。今はすごい、きれいだよ。血色いいし、ふくふくしてる」
 そうだろうか。
 自分ではよくわからなくて、しげしげと自分の身体を見下ろした。
「旦那さん気を遣ってくれてるんでしょ? あんた不精(ぶしょう)だもんね」
「料理はするよ。――一応だけど」
 実際、博の方が上手いけれども。
 むくれて見せると、美鳥は悪びれない笑い声を立てた。つい雅のくちもとも緩んでしまう。
「ああ、そうだそうだ。別にね雅、世間話のためだけに会いたいって言ったわけじゃないの。ね、あんた中学のとき着付けの免許欲しいって言ってたじゃん。取った?」
「ああ――うん。なんで?」
 言った記憶はまるでなかったが、ひとまず首を縦に振る。すると美鳥はよかったあと破顔(はがん)した。
 ――待て待て。よかったあ、って。何がいいのか。
 怪訝そうな雅に向かってにこにこしながら美鳥は(かばん)を探り、中からスケジュール帳らしきものを取り出した。右手にはボールペンを握っている。
「あたしが上の子産むときに産院で知り合った子なんだけどね」
「上の子がいるの?」
「いるよーあたし初産(ういざん)は二十歳だもん。でね、そのときに知り合った子がいてね、まあ子とか言ってもあたしよか四つか五つ上なんだけど」
 手帳をぱらぱらめくり、あったあったと独りごちてそこを押さえ、メモのページから白紙の一枚を抜き取った。
「教室に行くほど大層な理由はないけど、付け焼刃でいいから一応きものを着付けられるようになりたいなあとか言っててね。双子とか三つ子の多い家系みたいで、そうするとほら、冠婚葬祭重なるでしょ」
「ああ、そうかな」
「さあどうだろう。わかんないけど、とりあえず結婚式は重なるみたいね」
 などと真面目に聞いてきたのかなんなのか、無責任に言いながら白紙に何か書きつけていく。
「ハイコレ!」
 ぴしっ。
 目の前にメモが突きつけられた。
「ナニコレ?」
 雅は目を()らす。
「住所と電話番号。その子に雅のことオススメしちゃったのよ咄嗟(とっさ)に。『美鳥さん着付けできる?』って訊かれてさ、咄嗟に」
 ――咄嗟に何年も会ってない友人の名前、出すなよ!
 ここでそれを言ったところで後の祭りだが、思わずにはいられない。だが美鳥はやはりマイペースに、
「言っとくけど許可は取ってあるからね。雅に確認取ったらちゃんと紹介するって言ってある。ダダ漏らしにするようなことはしてないから安心して」
 それは疑っていない。着付けを覚えたいらしいそのひとと美鳥の間に雅の名前が浮上したのがいつのことかは当然わからないが、最近のことではあるのだろう。けれど、時系列やら何やら、細かいところがまったく判然としない。絶妙な加減でオブラートに包んで言っているような気がする。
 雅の手にそっとメモを手渡しながら、美鳥は幼い子どもに言い聞かせるみたいにやさしく言った。
「遊びに行くようなつもりでいいのよ。その子も付け焼刃でいいって言ってるんだしさ、気晴らしに」
 気晴らしに。
 雅は睫を伏せ、私の周りは嘘つきばかりだ、と思った。
 小鞠(こまり)が美鳥に雅の現在を伝えたのだ。小鞠は雅の今の不安定を誰よりもよく知っている。美鳥を覚えていたのなら送り込んでくるだろう。それはひどくお節介で余計なお世話で身勝手で、けれども今の雅に何より必要な衝撃だ。美鳥にはそれを遂行(すいこう)できる勢いがある。そして、彼女は既婚者で――
 ――『おかあさん』だ。
 博の声が、耳の奥に響く。
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