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 ――好きだよ。
 それを嘘だと思いたくない私は、ずるい。



 博が帰ってくるよりも早く、雅は帰宅した。それから夕食の準備に取りかかる。
 昼食をとった形跡は残っていなかった。彼は、汚れ物は残しておくと面倒になるからねと言って、出た(はし)からさくさく片付けていくのだ。
 博は何を期待して結婚したのだろうと考えた。
 ぱりぱりとレタスの葉を千切(ちぎ)り、硝子(がらす)のボウルに盛る。
 女に家事労働の従事を求めて結婚する男を、雅は心底軽蔑する。それに甘んじる女にも納得できない。だからこんなことを考えるのはおかしいのだけれど――
 それもこれも、負い目があるからなのだろうか。
 独身時代と同じように、ひとり旅をしているということ。でも、それは結婚する前に博に話したことだ。私はそれをやめるつもりはないし、やめたら私じゃない。それをわかってもらえないなら一緒にいられない。博は笑った。屈託(くったく)なく。
 ――うん、そうだね。ひとつの場所に縛られてる雅は、ちょっと想像できない。
 ――ひどい。
 漠然(ばくぜん)と思った。
「ただいま――あれ」
「おかえりなさい」
 ソファに座って(うつむ)いていた雅は、懐かしい声に顔を上げた。博は(ほが)らかに笑う。
「つくってくれたんだ? ありがとう」
「うん」
 つくるも何も、レタスやきゅうりやトマトなんかをざく切りにして皿に盛りつけただけなのだが、それでも博は笑ってくれる。
「昼もね、おいしかったよ。ご馳走様(ちそうさま)
「うん」
 博の言葉にひとつずつ頷く。こっくりこっくりと首を動かした。
 不思議だ。
 雅は博にとても追い詰められるのに、その一方で、子どもみたいに無防備な気持ちになって安心しきってしまう。
「それだけじゃ足りなくない?」
 と博に訊かれて、
「そうかな? ……そうかも」
 博は、足りないと思うよ、と言ってキッチンに立った。買ってきたらしいまぐろの()き身と、冷蔵庫に残っていたオクラを塩味に()える。バゲットを薄く切って軽くトーストした。
 ――統子さんは、やっぱり博さん贔屓(ひいき)だ。
 うっすら綺麗に焼き上がったバゲットを(にら)みながら、雅は複雑な表情になった。
 まぐろとオクラの和え物はバゲットにとても合ったし、新鮮な野菜もおいしかった。白ワインがあったらいいのにと言ったら、じゃあ代わりに、と博が笑って、シャンパンのグラニテを出してくれた。
「あのね」
 ひんやりしたデザートを食べながら、雅は美鳥のことを話した。美鳥との関係、久しぶりに会って話したこと、着付けの先生として紹介されてしまったこと。
「来週、金曜日ね。行ってくるね」
 雅にしたら、なんでもないことだった。
 その日にあったことを取りとめもなく話したり、予定を言ったりするのも。
 博はふと哀しそうな顔を見せた。哀しそう、というよりも、つらそうな顔。
「博さん?」
 皿を流しに持っていった雅は、首を傾げる。どうしてそんな顔をするのだろう。
「雅は自分が思うとおりに、行きたいところへ行っていいんだよ」
 それは雅が博に望んだことだった。
 ――管理しようとしないで、束縛しないで。
 博はそれを実践してくれているだけだ。雅は博の望みなど聞いたことがないのに、博はいつも雅の意志を尊重してくれる。
 気がつくと、大粒の涙を零していた。
 よりにもよって博の前でなど泣きたくないのに、止まらない。助けてくれるとわかっているひとの前で泣いてみせるのは卑怯だ。
 わかってはいた。ずっと、結婚する前から。
 博の想い方はやさしい。愛し方がとても穏やかだ。
 でもそれが雅にはひどくつらくなることがあると、博は恐らく知らない。彼にはわからないのだ。やさしくできないのがつらいと思うこと。博にとっては、ひとにやさしくあることが自然な状態だから。
「……雅、」
 戸惑ったみたいな声、それからそっと抱き寄せられた。
 博は雅の激情を怖がらない。雅は、博のやわらかさがとても怖いのに。
 いつからこんなに弱く、臆病になってしまったのだろう。
 ――ひとりで立てない私はいらない。
 背中を包む腕の感触、(かす)かに聞こえる鼓動、ほんの少し身体に残った消毒薬のにおい。
 涙が落ちるほどにこころとからだが引き()がされる。切られるみたいだ。
 こころもからだも、何もかも、ぜんぶ。
 どんどんばらばらになっていく。
「――もう、寝る」
 雅はしゃくり上げながら、博の胸を押し返した。癇癪(かんしゃく)を起した幼い子どもみたいだ。博は困惑しながら、それでも涙でべたべたになってしまった(ほほ)に張りついた髪を、いつものように耳にかけてくれた。
「おやすみなさい」
「……おやすみ」
 博のてのひらはいつもあたたかくて、少し乾いている。



 翌日、雅はやっぱりパジャマのまま、裸足でリビングに降りた。明るいキッチンでは、エプロンをかけた博が朝食を作っているところだ。
「おはよみーさん。ホットケーキだよ」
 ホットケーキ。
 寝起きの悪い雅の頬が緩む。
「うれしい」
 足をぺたぺた言わせてキッチンに回る。雅は、仕事をしているときの博の指先を見るのが好きだ。
「オレンジ食べる? ジュースにする?」
「食べる」
 承知、と言って博はまな板の上のオレンジを四等分にした。皮を()き、きちんと薄皮も取ってくれる。おまけにひとくちサイズに小さく切ってくれた。その間に見遣った窓越しの空は、いい天気だ。よく晴れて、雲もない。博みたいだ。
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