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「はいどーぞ」
 にこやかに差し出されたオレンジを、雅は素直にぱくんと(くわ)えた。博の指が、(わず)かに唇に触れる。
「おいし?」
 やさしく笑んで尋ねられ、雅はまた素直に頷いた。
「ん……うん。甘い」
「そりゃよかった」
 博が笑って雅から離れる。フライパンからはあたたかく甘いにおい。分厚くしてね、と言うと、三センチくらいにはね、と返ってきた。
 視線を転じる。
 ほんとうに、いい天気だ。
「お昼ご飯はゆでたまごにしよう」
「まだ朝も食べてないのに、みーさん……」
「いいの。ゆでたまご」
 繰り返したら、博が笑った。
「いいお天気だからね。(から)、縁側で剥いてね」
 三月も半ばを迎え、大気はぬくもっている。罪のない我儘(わがまま)を訴える雅に、博はまたくすりと小さく笑った。ホットケーキを裏返す。
「ゆでたまご、むけばかがやく……ですか」
 ……参った。
 ――どうしてわかったんだろう。
 中村(なかむら)汀女(ていじょ)のその一句は、雅が好きなそれだ。見透(みす)かされてしまった不快感ではなく、純粋な驚愕(きょうがく)。博は雅にさらりと繋がる。
 沈黙が落ちた。
 美しい無音。
 (うぐいす)が歌い、光が落ちる。赤いトースターが反射して、雅は目を細めた。



 縁側はぽかぽかと暖かく、うっかりすると眠ってしまいそうな陽気だった。
「博さん」
「ん?」
 縁側に座布団もなしで座り込み、博は(ざる)に入ったゆで卵の殻を剥いている。(ひざ)の上にはビニール袋。殻がぽろぽろ、そこに落とされる。雅も座布団なしで膝を抱えて座り、手伝うでもなく博の指の動きを追っていた。
 たまごが、春の光にやわらかに輝く。
「博さんの初恋って、いつ?」
 唐突だなあ、と苦笑された。
「いつ、っていうのは難しいな。終わってから気づいたようなもんだったから」
「なにそれ」
「中学、高校と同じだった子なんだけどね。高校卒業してから、ああ好きだったんだなあって思ったよ。友だちだったから、そういう意味ではずっと好きだったけど」
 また、ぱらりと殻を袋に落とす。庭の梅の木には(すずめ)が遊びにきていて、賑やかだ。
「それじゃ告白もしなかったんだ」
「微妙なところかな」
 ぱりぱり。白いたまごの殻を、博は丁寧(ていねい)に剥ぎ取っていく。長い指、整えられた指先。
「みーさんはいつ?」
 微笑した鳶色(とびいろ)の瞳と視線が合った。
 雅は、「博さん」と短く答えた。
 質問の回答にはなっていないが、雅だっていつかなどわからないのだ。
「博さんてもっと早熟(そうじゅく)かなあって思ってた」
 言われた博は、あはは、といつものように朗らかに笑った。
「みーさん俺のことどんなやつだと思ってんの」
 ――どんな……どんなだろう。
 難しく(うな)って(あご)を擦る。と、博は不意に笑みを引っ込めて遠くを見た。
「だから、かな」
「んん?」
 雀が鳴いて、鶯が鳴いて、風が歌う。春はのどかで(ほこり)っぽくて、懐かしい。
 ぱらり、指についた殻が剥がれるように袋に落ちた。その(さま)を見つめながら、雅は膝を抱え直す。
「情けないけど……あんまり、余裕がない」
 驚いて博を見る。
「ごめんね」
 博は彼には珍しく雅を見ないまま、微苦笑して言った。
 泣きたくなった。
 博は静かにたまごを剥き続ける。私のこころみたいだ、と雅は思った。
 博といると、こころの殻がぽろぽろ剥がれていく。
「サラダ、いっぱい作れるね」
 笊に手を伸ばしてたまごを取る。(ひび)を入れてぱりりと剥いた。
「気合い入れて食ってよ」
 時間は緩やかに過ぎた。
 風が流れるみたいに。



 このところずっと晴天が続いている。雨は気配もない。
 教わった住所はさほど離れていなかった。学区は同じだろう距離だ。あちこち飛び回るくせに人見知りのきらいのある雅は、電話での挨拶のとき、緊張で心臓を吐きそうになった。着付けの免許は取得こそしたものの、実際に『先生』をやったことは一度もない。
 ――やさしい声だったな。
 顔など当然見たこともないが、笑顔で話してくれているのがわかる声色だった。選択される言葉もやわらかく、雅はひとまず安心できた。
 が、会うとなればやはり緊張する。
 雅が訪問することにしたのは、双子の子どもがいると聞いたためだ。もうすぐ四歳になるらしいから、大人さえいれば留守番はできる。けれど、良くも悪くも今のところ身軽なのが雅の方なのだから、迷う必要もない。
 訪ねた先は古く大きな日本家屋だった。何度も住所と見比べる。間違いない。この家だ。
 古い大きな日本家屋という点は同じなのに、雅が教育されてきた家とは比較できないほど、それはあたたかく、丁寧に存在していた。
 どくどくと打つ心臓を(のど)もとで押し殺しながら、年季の入ったインターフォンを押す。色褪(いろあ)せたやさしい音が鳴った。
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