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 玄関の引き戸が、がらがらきゃりきゃり笑いながら開いた。
 春の陽に慣れた視界が一瞬暗くなる。しぱしぱと(またた)いた先に、短い黒髪の女性がにこやかに立っていた。薄手のニットのたんぽぽ色がよく似合っている。白い長いコットンのスカートが少女のようだった。
「はじめまして。このたびは急なお願いにもかかわらずご快諾くださってありがとうございます。それに、本来でしたらこちらが伺うところですのに」
 挨拶とともに差し出された手は小さくて、やわらかそうだった。美鳥の話では四つか五つか年上らしいから、博と同い年くらいなのだろうけど。
 ――……見えない。
 雅と同じくらいか、年下に見える。とはいえ雅も実年齢よりも下に見られるから、(はた)から見ればあまり変わったものではないのかもしれないが。
 短い黒髪をひらひら揺らして、大きな瞳は人懐っこくて、かわいらしい。
「お初にお目にかかります。有栖川(ありすがわ)……さん」
 ぎこちなく言って(たもと)を押さえ、手を握り返した。日本人との挨拶で握手をしたのははじめてだ。そっとてのひらに力を込めると、やっぱりやわらかな手だった。
 ――電話したら恐縮しながら喜んでた。客好きだからねあの子。まあ、遊んでやってよ。
 美鳥からの電話を思い出す。どうぞ上がってくださいな、と笑う有栖川夫人は本当に嬉しそうで、雅の頬もほっこりとあたたまった。
「あ、今思い出したんですけど、着付けの先生の敬称は先生で合っていますか? それとも何か別の敬称がありますか? 申し訳ありません、不勉強で」
 屈んでスリッパを出しながら、有栖川夫人が雅を見上げた。
「先生で合っている……と、思います」
 雅はぼんやり返した。
「ですが、あの……私は、先生なんてそんなたいしたものではありませんから」
 ここまで来ておいてなんとも無責任な発言だが、正直なところ、逃げたくなっていた。怯えと弱腰が言葉になってしまったのだ。
 失言に気づいてくちもとを押さえたが、放たれた言葉はなかったことにはできない。頭を下げようとしたら、うふふ、と嬉しそうに含み笑いをされた。
「ああそっか、遊びに来てくださったんですもんね」
 裏のまるでない笑顔に、雅はぽかんとしてしまう。
「じゃあ、先生ってお呼びするのはやめます。お名前でお呼びしても?」
「はい。ぜひ」
 そちらの方がよほどいい。不穏な動悸(どうき)がゆっくりと(しず)まってきた。
「では改めまして。私、有栖川彼方(かなた)と申します」
 きりっとして言うので笑ってしまう。
 そして、笑った瞬間、ふっと胸が軽くなった。
 思いがけず開いた心に困惑する。どこに反応したのだろう。わからないけれど、呼吸しやすくなっていた。
「……柘植雅と申します」
 雅も(こた)えて微笑む。
 固まっていた肩もやわらかくなっていた。あまりにも唐突で、しかも見当もつかなかった自身の変化に、微かな恐怖心が芽生(めば)える。
 下腹に力を入れた。雅は心配してもらいに来たわけではない。
「……実は、姓を知ったときにお伺いしたかったのですけれども」
 彼方が、上目遣いにちらりと雅を見た。
「もしかして、ご主人のお名前は博さん?」
「ご存じですか」
 この近辺で姓が柘植となれば、柘植歯科医院に直結してもおかしくはない。
「歯医者さんの柘植博さんですよねえ?」
 そうです、と頷くと、彼方はほっぺたをきらきらさせた。うわあ、と明るくなった表情にたじろぐ。なんだろうと思っていたら、
「うわーじゃああなたが話に聞いてた雅さんですか! あっごめんなさい。失礼しました。私ね、柘植くん――えっと」
 しどろもどろになったので、そのままどうぞ、と助け舟を出した。彼方はふにゃりと誤魔化(ごまか)す笑顔を見せる。
「柘植くんとね、同級生なんですよ。夫もそうですけど――わあ、感激だなあ」
 ――何がどう感激?
 雅にはついていけないのだが、彼方の中で事象と感想はしっかりと繋がっているらしい。対応に困って、無意識に着物の(えり)(しご)く。彼方があっと声を上げた。
「ごめんなさい、立ち話で。どうぞ」
「あ、はい。ありがとうございます……?」
 くるくる変わる表情。展開の早い感情に追いつけずに、妙な発音で頭を下げてしまう。
 最初の印象と少し違う。なんだか忙しいひとだ。
 でも、かわいいという点は変わらなかった。
 緊張しっ放しだった身体は、今もまだ進行形でゆるゆるとほどけていっている。
 つくりものではない笑顔が、ほろりと零れた。



 確かに、遊びに行くような気持ちで、って言われたけど。
 ――でも私、着付けの先生やりに来たんだよなぁ……?
 何ゆえ、のんびりお茶を楽しんでいるのでしょうか。
 通された一室、彼方は笑顔で、どうぞと緑茶と苺大福を勧めてくれた。ゆらめく湯気を払うように茶碗を持ち上げ、ひとくち(すす)る。
 彼方は雅の向かいに座ると、まず頭を下げた。
「本当に、わざわざありがとうございます」
 ――友だちとか従姉妹(いとこ)とか、結婚式が続くんですよ最近。それでね、とりあえず一通りでも着付けを覚えたいなあって思いまして。でもこの時期を過ぎれば着ないんだろうなあと思うと教室に通うほどでもない気がするし、だから身近に着付けられるひとがいたら教えてもらおうかなっていう程度だったんですよ。だけど美鳥さんが――えと、雅さんてお呼びしていいですか? 雅さんを紹介してくれて。
 そこまで話すと言葉を区切り、彼方はまたそろりと上目遣いに雅を見た。悪戯(いたずら)っ子みたいで、雅は笑ってしまう。仕草が微笑ましい。
「最初にお話ししておかなければいけないことでしたよね。もういい(とし)なのに情けない、すみません。お幾らでしょう」
「えっ」
 血の気が引いた。慌てててのひらを振る。
「遊びに行くつもりでって言われて、そんな、お金なんていただけません」
「でもお仕事ですよね?」
「結構です、友人にノート見せるような気持ちですから」
 必死で言うと、彼方は目をぱちぱちさせた。黒目がちの瞳が不思議そうに瞬き、愉快そうに細められる。
「お言葉に甘えてしまいますよ? 私、図々しいんです」
「甘えてください」
「ですがこれではけじめがつきません」
「それ……は……」
 そうだが。
「だから、友人になってください」
「え」
 どう言い逃れようか考えていた雅の耳に届いたのは、やわらかい、やさしい声と言葉だった。
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