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 彼方はついこの間のことを話すようにはにかんだ。
 湯呑(ゆのみ)を持った手に力がこもった。若葉色が波紋を描く。
 彼方が黙り込んでしまった雅の顔を覗き込み、微苦笑した。
「大丈夫ですか」
 (した)わしく気遣う、そっと寄り添った彼方の声に(おもて)を上げた。
 きっと、とても情けない顔をしていたと思う。泣きそうに(ゆが)んだ頼りない表情だったのだろう。彼方は困ったように微笑んで、
「死にそうな顔なさってますよ」
 と言った。



 雅は博が帰るなり、
「有栖川さんって知ってる?」
 と尋ねた。
 彼方とのこと――彼女に着付けの先生をしに行ったことだとか、結局きものなど一度も出さなかったことだとか、話が合ってしまったようなことを話すと、博は複雑そうに笑った。
「縁は()なもの――というか、ほんとう、袖振り合うも多生の縁だよね」
 なんのことやら雅にはさっぱりだったが、縁は異なものという点には同意見だったので頷く。
「あとね、子どもは神様がくれた冬に咲く薔薇なんだって。素敵だよね」
 そう言うと、博は穏やかに微笑んだ。
「それでねえ、博さん今週の日曜日、暇?」
「デートのお誘いですか?」
 博に訊かれ、雅は遠慮なく首を横に振った。
「ううん!」
「容赦なぁいよねぇえ……」
 食後の食器を洗う雅の横で、博は自分にコーヒーを、雅にココアを()れていた。
「有栖川さん、お呼びしてもいい? 彼方さんとお話ししてたら、そういうことになっちゃった」
 博が意外そうに(まゆ)を寄せる。
「そういうことってどういうこと?」
「だから、遊びに行ってもよいですか? よいです! って」
「……すごい仲良くなったね……」
「なったというか、なっちゃった」
 なんとなくわかる。何せ相手は彼方なのだ。
 ――でも、
 悪いことではない。
 悪いどころか、これは恐らくとてもいいことだ。
 突然、一家単位で会うことになる有珠(ありす)に対してだけは得体(えたい)の知れない、なんとも表現し難い気持ちになったが、何より彼方には――納得はできるけれども、驚いたのだ。雅にここまで、しかもこんな笑顔で家に招く心持ちにさせるなんて、どんな言葉を使ったのだろう。
「夫も妻もそれぞれ別の意味でずれてるのに……胃に穴開きそう」
 沸かし立てのコーヒーを飲みながら震えてみせると、雅は濡れた手を()き拭き、
「大丈夫、旦那様が内科の先生なんですって。知ってるでしょ? ()ていただいたらいいよ」
 と機嫌よく微笑んだ。
 ふっくらとした頬は幸せそうで、雅のそんな笑顔を見るのは久しぶりだった。
 博は思った。
 きっと、縁はひとが思っているよりも、ずっと奇跡的なものなのだ。



 (すみ)で染め上げたような黒い髪と瞳、それを縁取る長い睫、すらりと通った鼻梁(びりょう)。ふんわりと染まった頬が愛らしい。
「すご……なんていうか」
 はじめましてこんにちは、と挨拶すると、椿・榊姉弟ははにかみながらもこんにちは、と笑顔で返してくれた。声を持たない榊は手話(しゅわ)だ。
「父親そっくり」
「かわいいだろう?」
 有珠は自慢げににっこりする。素直に頷きながら博は、
 ――そりゃかわいいとも。将来有望だ。
 なんて冷静に思った。能力まで父親に似ているというのなら、非の打ち所もない。
「よ! 柘植くん久しぶり。背伸びた?」
 有珠の後ろから、ひょっこりと彼方が顔を覗かせる。敬礼するように片手を挙げて、にやりとにこりの中間のような、強気な笑顔を見せた。その真っ直ぐな強い笑みが高校の頃のままで、博は慕わしく不思議な懐かしさに微笑んだ。
「伸びません。もう打ち止めになって久しいよ」
 博の成長は十七で止まっている。だが彼方はあっさりとそれを無視して、
「変わんないねいつまでも小僧みたいな顔して」
 と笑った。
一奈(たかな)さん……じゃない、彼方さんに言われたくないよなんとなく」
「タカナとカナタを並べないで、洒落(しゃれ)か早口言葉みたいなんだからっ」
 少し()ねたみたいな顔で言い捨てて、彼方は雅の方へ寄っていってしまった。雅さん雅さんと呼びかけて満面の笑顔だ。旧友の博よりも、雅に会いに来たらしい。
「ああ振る舞ってはいるけどね、彼方、柘植に会うの楽しみにしてたんだよ。はい、おみやげ」
 有珠が差し出したのは一見して中身が酒瓶だとわかる風呂敷包みだった。もう片方には箱を抱えている。有珠手製のアップルパイだ。彼は菓子類は自分からつくることはしないが、彼方が頼めばフルコースだって並べる。
 料理でいっぱいになったテーブルの上は色とりどりで、騒がしい。子どもふたりが疲れて眠ってしまってからは、ここぞとばかりにそのテーブルに酒の瓶が林立しだした。
「今日は飲んでもいいって、椿と榊の許可も取ってあります」
 顔の高さまで上げたグラスを(あか)りに反射させて、彼方は堂々と笑った。
 雅は底抜けの柄杓(ひしゃく)、有珠も底抜けの柄杓。そして今回、彼方もザルだと判明した。
 人並みより少し上程度にしか飲めない博は、グラスに注ぎ足されないように絶えず注意を払っていなければいけなかった。有珠はハンドルキーパーだから飲まないわけだが、女性陣ふたりだけでも強敵に過ぎる。ふたりにつられてペースが狂ったら、博の明日は大惨事だ。
 雅は酒のせいだけではなく少し頬を紅潮させて、久々に軽い(そう)状態にあるらしかった。意外にというかやはりというかは微妙なところなのだが、彼方とは気が合うようで、何事か話して時折明るい笑い声を立てている。
「きれいなひとだね」
 つまみを作り足している博の横で、有珠は食器洗いをしながら呟く。雅は恐縮したが、彼方が「こういうときのサービスは男がするのっ」と言いきったせいで、客のはずの有珠が何故かキッチンに立つ羽目(はめ)になっていた。とはいっても、彼は嫌な顔ひとつ見せないが。
 彼方が言い放った理不尽な要求から、有珠は正しく理解したのだ。雅と彼方を、なるべく自然なかたちで一緒にさせていた方がいいことを。
「雅さん。雰囲気っていうのかな、そういうのが、やわらかいけど硬質な感じがするひとだね。純度の高い結晶みたいな」
「なんか有栖川、彼方さんに物言いが似てきたよ」
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