back  |  next   
 軽く受け流すつもりだったのに、有珠の言葉は刻まれるように胸に残った。純度の高い結晶。そのとおりだ。きれいなままを保つけれど、何ものとも溶け合うことのない心。
 雅はいつも孤独だ。



「またいらしてくださいね」
 夜の七時を回って立ち上がった有栖川一家をにこやかに見送った雅の言葉は、社交辞令ではなかったと博は思う。今度はうちにいらしてくださいとか、今度こそ着付けを教えていただきますねとか、彼方は指折り数えるように雅に告げて、最後に
「柘植くんも来てねっ」
 と笑顔で元気よく言った。
「どうあっても俺はついでなの?」
 そんな会話にまた笑って、部屋に戻る。一気にしんと静まり返った部屋で、雅はまた冷蔵庫を開けた。
「アルコールはもう駄目だよ」
 後ろから声をかけると、ふり向いて(うら)みがましい目を向けられる。それがあんまりにも子どもっぽくて、博は笑いながら「代わりにココアを淹れてあげるよ」と言った。
「ま」
「マシュマロもちゃんと入れるよ」
「うん、ありがとう」
 途端に興味を失ったように冷蔵庫から離れ、雅はどしんとソファに腰を下ろした。湯が沸くのを待ち、博は自分用のコーヒーの用意もする。有珠のおかげで、食べたり飲んだりした量のわりには汚れ物は少なかった。ほとんど残っていないといっていい。
「ねえ、博さん」
「うん、何?」
 ぬるめに淹れたココアを渡すと、雅は両手で包むようにマグカップを受け取った。彼女はひどい猫舌なので、あまり熱く淹れないのが常だ。
 ねえと呼びかけたものの、雅の声はそこで途切れ、無表情にココアを飲んでいる。
 薬缶(やかん)が蒸気の音を立てたところで、コーヒーを沸かす。以前は湯を(そそ)ぐだけのインスタントで充分と思っていたのだが、雅に沸かしてもらったコーヒーを口にしてから、変に舌が()えてしまった。ただし、彼女がコーヒーを淹れてくれることは滅多(めった)にない。
 やっと出来上がったコーヒーをカップに注ぎ、博もソファに落ち着く。雅はまだ黙ったままで、底の方に残ったココアと溶けたマシュマロをじっと見つめていた。
「博さん、赤ちゃん欲しい?」
 霹靂(へきれき)の問いに絶句した。
「どうしたの」
 やっとのことでそれだけ言う。そんなふうに投げ出すみたいに言うなんて、普段の雅からは考え難いことだ。
 雅は唐突に博を向いてへらりと笑い、
「へへ、なんでもない。榊くんと椿ちゃんがかわいかったからね、訊いてみただけ。博さんって子ども好きなのね」
 笑ってはいるが感情はこもらない声で付け足し、雅は、疲れたからもう寝る、と言い訳するように宣言した。カップを洗って伏せ、挨拶をして寝室に引き上げていく。リビングは煌々と明るく、部屋にはまだ笑い声がさざめくようだった。



 ドアが開く音には気づかなかった。でも、ぎゅっと閉じた(まぶた)の奥がほんの少し明るくなったことで、寝室に博が入ってきたのだとわかった。細い隙間(すきま)から、廊下の明かりが漏れ入る。
「雅」
 ベッドに(うずくま)り、頭の上まで毛布を被って、雅は泣いた。無理に声を殺しているから、顔も身体の中も熱くて痛い。嗚咽(おえつ)を聞かれるのが嫌で、枕に顔を押しつける。全身が痙攣(けいれん)するようだった。
 苦しい。
「雅、俺はね、子どもが欲しくて結婚したんじゃないよ」
 哀しさの(にじ)んだ声で言われて、雅は傷ついた。そんなことわかっている。
 なのに、ゆっくりと起き上がった雅の唇からは、自身ですら本心なのか否かわからない言葉が出た。
「じゃあ、どうして結婚したの? 後悔してる? 私と結婚したこと」
「雅……」
 博の顔が(くも)る。
 博は、喜怒哀楽のうち()の感情が薄い。ほかの多くのひとが腹を立てるだろう場面で、彼はまず哀しみが先に立った。雅にはそれが痛かった。いっそ引っ(ぱた)いてくれたらいいのに、といつも思う。
 でも、それは甘えなのだ。博はそれを許さない。それだけは絶対に許してくれない。
 涙で顔がばりばりした。頬が(しび)れるように痛む。なおも零れ落ちる(しずく)を乱暴に手の甲で拭ったけれど、止まらなかった。声を殺しきれず、苦しくて息を()ぐ。
「赤ちゃん欲しいわけじゃないなら、なんでセックスなんてするの?」
 言ってしまってから、言葉の残酷さに自分で愕然(がくぜん)とした。
「……雅にとっては、子どもつくるためだけのものなの?」
 博の指先が、雅の涙を(ぬぐ)う。
 違う。そんなんじゃない。
 弱々しく首を振った。
 ――そんなんじゃない。
 博と抱き合った自分に嘘なんてひとつもなかった。
 でも、だめなのだ。途方もなく苦しいのだ。涙が止まらない。こころとからだが、どんどんばらばらになっていく。引き剥がされる。こんな自分を、どうしたらいいのかわからない。
 再び嗚咽を漏らしはじめた雅の頭上から、「ごめん」と突然博が謝った。
 何故博に謝られるのか見当がつかず、雅は面を上げる。涙で視界が(かす)んだ。
「紙切れ一枚のことがつらいんだったら」
 紙切れ一枚のこと。
 結婚が? 博にとってのそれが?
 瞬くと、睫に涙が散った。
「離婚、しようか。それも紙切れ一枚のことだから」
「――ばかっ」
 瞬間、発声した雅ですら驚くほどの大声を上げた。
 思いっきり引っ叩いてやりたかった。それをしなかった代わりに新しい涙が膨らみ、()せながら泣いた。
 紙切れ一枚のことだ。
 執着はない。
 結婚も離婚も、薄っぺらな紙の上だけの話なのだ。そんなかたちにこだわる必要などどこにもない。好きだという気持ちさえあればいい。
 それなのに、こんなにも揺れてしまうのはどうしてなのだろう。博の一言一言が苦しい。彼のすべてが、雅のいちばん無防備で純粋で、いちばん(もろ)くて(みにく)い部分に直接触れる。
 サボテンみたいだ。
 実家に帰ったときに見た、ハリネズミに似たサボテンみたい。引っ込められない哀しい(とげ)をいっぱい立てて、丸くなっているサボテン。雅は、博がしてくれるように彼を包めない。
 本当はわかっていた。
 結婚は紙切れ一枚の問題でも、博と一緒にいることそれ自体が、雅にとって既に紙切れ一枚のことではなくなってしまっている。



 back  |  next



 index