back  |  next   



 あれからというもの、雅は頻繁とはいわないまでも、ちょくちょく彼方と会っているらしい。着付けを教えるという名目なのだが、どうやら一度もそんなふうにはならず、(もっぱ)ら茶菓子と雑談を楽しんで終わっているようだった。
 雅は当然いつもきもので行くのだが、どうだった、と博が問うと、今のところ十割の率で遊んできちゃったという答えが返ってくる。
 雅はだめだなあと難しい顔をするが、博はそうは思っていない。むしろ、彼方に感謝していた。彼女と会ったあとの雅は、彼方の躁が伝染したかのように(うつ)とは無縁だ。雅も彼方を好いているようだし、用事がなければひとと会うことを渋る雅だから、着付けという大義名分(たいぎめいぶん)があるのは都合がいいのではないだろうか。
 もしかしたら彼方は雅のそういう性質を見抜いたのかもしれないと、なんとなく思うこともあった。
 休日が合えばどちらかの家に食事に行ったりして、双子の姉弟も博と雅と打ち解けてくれた。椿は雅に髪を編み込んでもらうのが楽しみで、榊は博に抱き上げられ、ぐりぐりくすぐられるのが好きだ。
 外はすっかり春の陽気だった。
 四月も近づき、雅と結婚してじき三ヶ月になる。それはつまり、雅の誕生日が近いということだった。彼女の誕生日は、結婚記念日から数えてぴったり三ヶ月目なのだ。
「きれいに咲きそうだね」
 例によってなんの前触れもなく有珠が言う。和室の縁側で将棋を()しながら、有珠は、桜だよ、と付け加えた。
「ああ。うん」
 昼前に彼方のところへ出かけた雅と入れ違いにやってきた有珠は、おみやげ、と言ってカステラを出し、博に切り分けさせて茶を出させ、さらに将棋の相手をさせていた。博はわけもわからないまま言うなりに動き、現在に至る。
「で?」
 桂馬(けいま)を進めて、切り分けたカステラを食べる。有珠は(とぼ)けた。
「で、って、なに?」
「いや、何か用があって来たんじゃないのか? いきなり来たからびっくりしたよ」
 有珠は笑った。
「柘植の様子を見に来たんだよ。雅さんにふられて泣いてやしないかと思って」
 なんてことを言うのだろう。
 ううんと(うめ)いた博を尻目に、有珠は香車(きょうしゃ)を動かした。その指先を見ながら、思う。
 有珠は何か知っているのだろうか。今現在、博と雅の間にある薄い膜のような壁を、彼は感じたのか。
 ただ、彼は、それを自分から言うことはしないのだ。
 互いに黙々と駒を進めた。日当たりのいい縁側は心地よく、空からは零れるように春が降る。風だけはまだほんのりと冷たさを残していて、ひゅうと吹くたび微かにひやりと頬を撫でた。
 ――後悔してる? 私と結婚したこと。
 雅の声が耳の奥に蘇る。あの夜を最後に、雅は一滴の涙も見せていない。
 ――後悔なんかしてないよ。したこともない。
 心の中で、雅に返す。
 けれど、彼女から目を()らさずにいることは、結構難しい。
 博は妥協(だきょう)を許すことができ、必要と感じれば嘘もつく。答えの出ない疑問に対して、仕方のないこと、(ある)いはそういうものなのだと自分を納得させることができる。
 雅は違う。
 つまり、そういうことなのだ。雅はいつも真っ直ぐ生きる。傷つくことがわかっていても、体当たりで、真正面から向き合う。博は時々困惑するのだ。雅の一途(いちず)さや痛々しいほどの純粋さ、自分に向けられる無防備な笑顔。
 博は、雅が抱えている痛みを知らない。彼女のように潔癖なほど純粋に生きることができない。どうして彼女は、あんなにも真摯(しんし)に疑問と向かい合えるのだろう。
「柘植、僕らが結婚する前に彼方に一度会ったろう?」
 不意に、有珠が口を開いた。博は現実に引き戻されて、うんと返事をする。
 たった一度きりだけれど、帰省(きせい)したときに彼方と偶然出会って話したことがあった。
「結婚してすぐだったかな、そのときのことを話してくれてね。それを今思い出したんだけど――彼方が、柘植は流れみたいだって」
 流れ。
 有珠は視線は盤面に集中させたまま、(つぶや)くように言葉を継いでいく。
「僕との時間は積もっていくけど、柘植との時間はさらさら流れていくんだって。彼方は僕と柘植を似てるって言ったけどね、でも対照的だって言うんだよ。僕が水なら、君は流れそのもので、かたちのないものだって」
「よくわからない」
「うん、僕も聞いたときはそう思ったよ」
 でもね、と言って博を見、すいと視線を外す。それから、少し伏し目がちに微笑んだ。(なめ)らかな頬に(かげ)を落とす睫、深い瞳。有珠の微笑はそれ自体が一枚の絵のようで、美しいけれどどこか寂しい。哀しい。
 彼も孤独なのだ。
「久しぶりに柘植に会って、なんとなくわかったよ」
 博は言葉を見つけられずに、黙ってしまった。流れであり、流れていくというのは、どういうことなのだろう。
 ひゅうと頬を撫でる春の風、微かにひやり。
干渉(かんしょう)し過ぎないだとか、そのひとの望むようにそっとしておいてあげられるのは、柘植の長所だと思う。君は深く立ち入ったり執着したりすることで、ひとの中に自分を(とど)めさせることをしないから――そういう、軽さっていうのかな。重みを感じさせない柘植の性質っていうのはね、いいところなんだと思うよ」
 終局。博の将は追い詰められてしまった。
「でも、柘植。あんまりにも手応えがないと、誰だって不安になる」
 顔を上げると、有栖川の黒い瞳と正面からぶつかった。表情は常と変わらず穏やかだ。
「柘植と、僕や彼方の間になんの衝突もないのは、僕らのというよりも君のその性質による。問題なのは衝突がないことじゃないしね」
「何が問題なの」
 本気でわからずにそう尋ねると、有珠は心底意外そうな顔をした。博には、彼がそんな顔を見せたことが意外だった。そして彼の表情に哀しむような色がちらりと覗いたことで、博は対象も明瞭にわからない焦燥(しょうそう)感を掻き立てられてしまう。
「君はひとの気持ちを察することを誰より(こま)やかにやるのに、おかしなところで鈍感だ」
 俯いて独りごちるように言い、有珠はまた博を見据えた。
「問題なのはね、衝突がないことを苦しく思うか否か、だよ。わかるかい、柘植。彼方はどうだか知らないけど、少なくとも僕は君と衝突がなくても一向にかまわないんだ。僕は君がどこに行っても、何を言っても、関係ないと思うか或いは受け流してしまえる」
 君だってそうなんだろう。
 問われて、博は素直に頷いた。有珠も彼方も好きだし、大切な友人だとは思う。けれども、彼らとの関係は、深いところで触れ合いながらも深く繋がることはない。
 さらさらと、流れるような。
「雅さんはぬるま湯に()かっているような関係をよしとするひとじゃないみたいだから……」
 有珠が何を言いたいのかは、もう明らかなことだった。
 そこから導き出されるひとつの結論は、前から博が抱いていた恐怖に近い懸念(けねん)だった。小鞠にはわかっているような口を利いたけれど、背筋を這い上ってきた焦燥は、博の認識がずいぶんと甘いものだったことを表していた。
 雅を追い詰めているのは博なのだ。
 きっと雅は、ひどくもどかしいのだろう。何に関しても留まらない博の性質が。喧嘩(けんか)のひとつもしたことがないという事実が、苦しいに違いなかった。
「どうしたらいい?」
 博は、雅に対して腹が立つことがない。いつだって、雅の子どものような真っ直ぐな疑問に答えてやれない自分を不甲斐(ふがい)なく思うだけで、博を傷つけようとして自身を傷つける雅に何を言えばいいのかわからないだけで。
 零れた言葉を聞きつけて、有珠はつらそうに苦笑した。
「何を甘えたこと訊いてるの」
 本当だ。
 博も苦笑した。
 春の風、微かにひやり。もうすぐ開花する桜の枝が揺れた。

 つらいのは、セックスがないことではないのだ。
 back  |  next



 index