back  |  next   

東の果ての魔女、旅に出る たまご編






 みどさんの赤ちゃん順調みたい、と言いながら、雅が受話器を置いた。
「里帰り出産なの。もうすぐこっちに帰ってくるんですって」
 心なしかうきうきした様子で、(みやび)は誕生日のテーブルに着いた。
 せっかくの誕生日なのだから、(ひろし)は普段つくらないような珍しいメニューに挑戦しようとはりきっていたのだが、雅のリクエストで実にささやかなものになってしまった。
 でも、ほかの誰でもない、本日の主役たる彼女が「鮭ごはんとから揚げなんてご馳走(ちそう)だよね」と喜んでいるのだから、博に否はない。
 三月半ばの夜が脳裏にちらつき、博は慎重に言葉を選ぼうとした。が、思いつくどの言葉にもたいした差はなく、結局、
「元気な赤ちゃんだといいね」
 と当り障りのないことを言ってしまう。それでも雅は嬉しそうににっこりした。
 心を()かれた。
 たとえどんなに孤独でも、こうして笑ってくれる。博は、今はもうそれだけで十分だった。失望したわけではない。ただそういうものなのだと、頭ではなく心が納得したのだ。
 博は雅を愛していて、雅は不器用だけれど精一杯受け止めようとしてくれている。博と雅とでは、愛情の示し方や手段に大きな(へだ)たりがあるから苦しいのだ。とても痛くて疲れてしまう。
 それがわかったから、博はもう傷つかない。
「帰ってきたらまた会いましょって誘われたから、いつになるかわかんないけど行ってくるね。その前に彼方(かなた)さんのところ行くけど」
「気、合うねえ」
「ね。不思議とね」
 あまりの感想に、博は笑ってしまった。
 テーブルに並んだ料理の数々をきれいに平らげ、雅はワインをひとりで一本近く空けた。機嫌はすこぶるよく、切り分けたチーズケーキを幸せそうに食べている。
「みーさんみーさん」
「はあい」
 雅がフォークから口を離して顔を上げる。彼女の目の前に、ぬっと箱を突き出した。透明なプラスチックのケース、赤いりぼん。中には小さな鉢植えが収まっている。
「なに、これ?」
 誕生日なのに、りぼんまで掛かっているのに、雅はきょとんとして(たず)ねた。
 苦笑がまじりそうになる。博は眉尻(まゆじり)を下げて笑った。なんとも気の抜けた顔になる。
 幸福の表れでもあった。
「誕生日のプレゼント。生誕二十三周年おめでとうございます」
「あ……わぁ。ありがとうございます」
 雅はふわりと(ほほ)を染めて、目をきらきらさせて、思ってもいなかったみたいに恐縮しながらケースを受け取った。彼女はかたちのあるなしに関わらず、ひとから何かをもらうことを期待しない。去年もその前も、雅はこんなふうに、びっくりして博からのプレゼントを喜んでくれた。
「かわいい……(つぼみ)がある。ピンク?」
 雅はあまり植物には詳しくないけれど、濃い緑色のぎざぎざの葉っぱが薔薇(ばら)のものであることくらいはわかる。
「うん。みーさんに贈るなら、やっぱり赤よりピンクだなあと思って」
 正式な名前はよく知らない、ピンクのミニバラ。今にも開きそうな蕾が三つほど、枝の先端で揺れている。
「みーさんが、彼方さんから聞いたって言ったでしょ。子どもは神様がくれた冬に咲く薔薇だって。……冬に咲くのは難しいかもしれないけど」
 目の高さまで持ち上げて薔薇に見入っていた雅の目が、驚きに見開かれた。怖がりながらの視線が博に移動する。
「こども、欲しいの?」
「そうじゃないよ」
 博は穏やかに微笑し、否定した。
「俺が雅と結婚したかったのはね、雅が帰ってくる場所を俺にしてほしかったからだよ」
「……わかんない」
 唇を(とが)らせると、博は言葉を選ぶように考える仕草を見せた。そうだなあ、と(こぼ)す。
「雅は自分が思ってるよりずっと、ひとりでなんでもできるし、やってるよ。俺がいなくてもなんにも(こた)えなくて、」
 そんなことない、と否定する前に、博に(ひたい)を軽く弾かれた。
「いたいっ」
「ああ駄目だ面倒。ややこしいことになりそうだし、簡潔、率直に言おう」
「もう、なんなのっ」
 弾かれた額を()り擦り博を(にら)む。博はふうと息をついて、それから「笑わないでよ」と雅に注意した。笑えるようなことを言うのだろうか。雅は、言うなら早く言って、とむくれる。
 すると博は、ああどうせ笑うんだろうなあとか()らしながら、
「ひとり占めしたかったんです」
 と言った。
「ひ?」
「犬の縄張り争いと同じって言われるのわかってるけど、でもやきもちくらい焼きますよ、俺だって」
「……うそ」
「本当」
 顔が赤くなっていくのが、自分でわかる。雅は、ぎゅう、とプラスチックのケースを抱きしめた。
 反論の余地は大いにあったけれど、どれも口に出すことはできそうもなかった。
「子どもに関しては、どっちでもないっていうのがいちばん近いよ。好きだしかわいいと思うけど、雅が無理だと思うんならいないままでいい」
「私が欲しくないって言ったら、それに従うの?」
「従うんじゃないよ。ただ、今は雅がいちばん大事っていうだけ」
 何も言えなくなってしまって、雅は(うつむ)いた。
 乾いてあたたかい博の指先が、下に流れた髪をそっと耳にかけてくれる。
 薔薇は水いっぱいあげるんだって、と博が言った。
「きっと、きれいに咲くよ」
「……」
 ――ひとり占め。私を? ――ばか。
 ――……ばか。
 博をじっと見つめ、それから目を薔薇に戻す。
 雅は微笑んだ。
「ありがと……だいじにする」
 ほんの小さな声。
 十分すぎるほど、博の耳にはよく届いた。心にさえも。



 back  |  next



 index