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 美鳥(みどり)は雅が予想したより早く電話を寄越した。帰ってきたから会いたいという内容だ。何度か電話で彼方とのことや赤ん坊の話はしていたけれど、やっぱり直接会って話すに限る。目を見て話せないのは落ち着かない。
 行ってくるね、と言うと、博はお決まりの台詞を返した。
「迎えにいこうか?」
 木曜、日曜と祝祭日が医院の休診日で、その日は日曜。雅は少し考えて、それからにっこりして(うなず)いた。
「うん。迎えにきて」
 帰る頃になったら手近な公衆電話からおうちにかけるからね、と告げて表に出る。(まぶ)しいくらいに太陽が輝いていた。春も深い。
 前回と同じく、駅前まで行く。店も同じ、ピンク色の壁の。
 今回も美鳥はすぐに見つかった。約束した時間より十分早い。
 学生時代、待ち合わせは遅刻ギリギリが彼女の当然だった。変わったのは結婚したからだろうか。それとも、『おかあさん』になったからだろうか。或いは、どちらでもない、何か想像もつかないような理由か。
 もしかしたら、なんとなく変わった、という程度のものなのかもしれない。
 ひとの変化は、他人からすれば恐ろしく唐突だったり、理由が不明だったりする。大きな変化だと思ったのに、本人はどうということはない顔をしていることさえある。
 人間は不思議だ。毎日毎日変わっていって、その一方で一生涯変わらないものを持っていたりする。
 雅が窓際の隅の席に腰を下ろすと、美鳥はさっそくメニューを開いた。注文するのも待ってくれていたらしい。
「待たせてごめんね。みどさん、赤ちゃん、どう?」
「デートに遅刻した彼氏か彼女みたいな台詞(せりふ)ね。こっちは順調。予定日がさ、二週間後なんだけどね、おかげであたしの自由はないわね。またあれかァとか思うといい気はしないし」
「あれ? って何?」
「そりゃアレよ。出産」
「はあ?」
 何を言っているのかわからない。出産はセットで考えるものなのではないだろうか。
 ――私の考え過ぎ?
 それならあり得る。頭でっかちな考え過ぎは、雅の得意技なのだ。
 不可解な顔をしている雅に、美鳥はにやりと笑った。
「すんっごい痛いんだもん。しかもよ、想像してみ? ()(そろ)ってて足開くのなんか事に及ぶときだけっつー年齢の女がよ、()き出しで台の上にひっくり返って(うな)って(うめ)いて苦しんで産むのよ」
「……」
 ――……このひとも大概突拍子(とっぴょうし)もないことを言う……。
 言葉の(すさ)まじさに唖然(あぜん)としてしまった。
 そんな雅など素知(そし)らぬふうで、美鳥がうふっと笑う。
「そんでもまあ、出てきた赤んボは」
「かわいい?」
「まさか」
 ちょっと幸福な気持ちで尋ねたら、美鳥はあっさり期待を裏切る言葉を放った。
「かわいいわけないでしょあんた生まれたばっかの赤ちゃん見たことある? 赤紫色してんのよ。でもってなんだかむにむにしてんのよ。生まれたての動物ってもう人間もねずみも(すずめ)(ひな)もみんな一緒ね」
 とんでもない言い方についていけず呆然としていたら、半眼で面倒くさそうに言っていた美鳥が一転して微笑んだ。雅に向けて、きれいに片目を閉じてみせる。
「でもね、めちゃめちゃ愛しいの」
 ――赤紫色してて。
 むにむにしててかわいくないのに愛おしい。
 驚いて、嬉しくて、かわいくないけど感謝して、
 ――はじめまして。
 そう言えるのが。
 やっと顔を合わせられるあの瞬間が。
「……いいなあ」
 (つぶや)いてからはっとした。
 今、今自分は何を言っただろう。信じられない言葉を口にした気がする。
 美鳥には聞こえなかったようで――それとも、聞こえないふりをしてくれているのだろうか。
 雅と美鳥は、運ばれてきたレモンティーとミルクティーをそれぞれ傾けた。
「産むまでとか産むのももちろん大変なんだけどねえ、やっぱ産んでからじゃない、勝負は。腹ん中にいる期間のが短いわけだしさ」
 美鳥が大きな腹にぽんと手を当てる。
「そん中に人間が入ってるんだね……」
 雅が真剣な顔で言うと、美鳥は少し間を()けて、それから笑い声を立てた。
「そーよ、こん中に人間がいるの! ちっこくて泣き喚くしかできない悶絶(もんぜつ)かわいーやつがね!」
 雅も少し笑った。口ではなんだかんだと言いながら、美鳥からは幸せが(にじ)んでいる。
 雅は彼方のことを報告した。といっても、会えば茶を飲み菓子を食べ雑談しているだけだ。未だに着付けはしていなかった。
「毎回毎回、本当に遊んでるの」
「遊んでもらってるの? 遊んであげてんの?」
「遊んでもらってるの。きものはちゃんと、いつも置いてあるんだよ」
 美鳥は最初けらけら笑いながら聞いていたのだが、気づくと声が途絶えている。
「みどさん?」
 向かいに座る美鳥を(のぞ)き込む。ぎょっとして雅は立ち上がった。
「みどさん、どうしたのっ」
 美鳥は蒼い顔をして俯き、苦しそうな浅い呼吸を繰り返していた。席を立って寄ろうとしたが、美鳥は手をひらひらさせて雅に座るよう(うなが)した。
「あはー」
「あはーじゃないよ」
「やばいわーなんか陣痛っぽい」
「じっ……?」
 ――陣痛?
 心臓が躍り上がる。美鳥の口調はふざけているが、顔は相変わらず蒼い。雅は立ち上がって彼女の横に回り込んだ。
「それじゃお茶してる場合じゃないよ! 立てる? 病院に行こう」
「ああ、大丈夫。たぶんすぐ治まるから」
 ――お、治まるものなの?
 妊娠も出産も経験のない雅にはさっぱりわからない。陣痛はじっとしていれば治まるものなのだろうか。そんな話は聞かない。
 美鳥が息を絞り出す。
「や、もうね、なんていうか、…………いったぃぃい…………」
 雅は唇を引き結んで、腹を抱く美鳥の腕を強く(つか)んだ。
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