back  |  next   
「救急車とタクシー、どっち!」
「振動っておなかに響くのよう。特に規則的なのはちょっと」
「何を選んでも響くよ! 不規則な振動なんて千鳥足(ちどりあし)くらいのもんでしょ! アホなことぬかしてるんじゃない! 話すことがあるなら(そば)にいて聞くから、病院に行こう。ねっ」
 押しきるかたちで会話を強制終了させ、美鳥の肩を抱いて立ち上がる。大急ぎで会計を済ませてタクシーを拾った。
 ――ここが駅前でよかった!
 駅前でもなかったら、こんなにすぐにタクシーを使えることはない。



 キャベツ畑のど真ん中にある産院というのは、一体なんの冗談なのだろう。動くのかどうか怪しい自動ドアを前にした雅は、そんな感想とともに、ここを信じて本当に大丈夫なのかと不安になった。
 この年季の入りよう。
 雅にとって病院は学校と並ぶ怖いところだが、その産院の恐ろしさは単純に古さによる。白かったのだろう壁は完全にグレーに染まってしまっているし、大きな(ひび)が入っている。
 建物内部はそれでもなんとかまともに整っていたが、外観から得た感想がまるごと(くつがえ)るほどの設備にはどうしても見られなかった。
「前もここで産んだの。彼方ともここで会ったのよ」
 けろりとした美鳥の物言いに安堵(あんど)するのと同時に、
 ――あ、そうか。陣痛って波があるんだっけ。
 と思い至った。「治まる」とはこのことを言っていたのだろうか。だとしたら申し訳ないことをしてしまった。落ち着くのを待ってからの移動の方がよかっただろう。
「みどさん、ごめんね。気が回ってなくて……」
「は? なんの話?」
「いやあの」
「心配かけてごめんはこっちよ。あ、さらにごめん、上着取って」
 どうにも伝わっていないが、美鳥も聞く耳を持つつもりはないらしい。雅は言葉を重ねるのを諦めた。こういうときの美鳥は、本当に何も聞かない。
「みどさん、今痛くないの?」
「平気平気」
 まだおろおろしながら、雅は言われるままチェストに無造作に置かれた厚手のカーディガンを手渡した。ベッドによいせと乗った美鳥が、ポケットから携帯電話を取り出す。
「雅、旦那さんに連絡入れとかなくていい? 迎えにきてもらうんでしょう。この辺公衆電話全然ないよ」
 はらはらと美鳥の行動を見守っていた雅だったが、それを聞いてはっとした。美鳥から携帯電話を受け取る。一階のロビーに電話はあったのだが、若い妊婦が使用中だったし、それもなかなか終わりそうにない雰囲気だったのだ。
「……初産(ういざん)に立ち会う旦那じゃないんだから、あんたちょっと落ち着きなさいよ」
「そんなこと言われても」
 泣きそうになる。
 確かに美鳥は初産ではないし、そもそも雅は彼女の夫ではないのだが、出産間際の妊婦の傍にいるのははじめてなのだ。陣痛なんて字面(じづら)でしか知らない。ものすごく痛そうだったのに今は嘘みたいに元気で、それも心配でならなかった。波があると知ってはいても、本当に知識として持っているだけだ。体験したことはもちろんないし、見たのもはじめてだった。
「そんな怖がらなくても大丈夫大丈夫。出産てこういうもんよ。痛くないといきめないんだから、痛くないと困るの。痛いのヤだけど。ほら雅、スマーイル。笑顔笑顔」
 からっと笑った美鳥が、両手の人差し指で左右それぞれの口角をきゅっと持ち上げる。
「う、うん……」
 雅は携帯電話を両手で握りしめて、ぎこちなく笑った。
「みどさんはいいの? 電話しといた方が」
「あー。でもまだ泊まるって決まったわけじゃないしー。それに、あたし前科があるのよね」
「前科?」
 不穏な単語だ。
「陣痛だ! って思ったら、ただの食中(しょくあた)りだったことがあるの」
「……間違えるものなの……?」
 陣痛と食中りの痛みは似ているのだろうか。だとしたら、かなり多くの人間が疑似的な軽度から中程度の陣痛を体験していることになる。
 美鳥はやはり手をひらひら振って、
「いやあ、ふたり目っていう、いい言い方をすれば余裕というかなんというか。そういうのがあったのよね、たぶん。あんたに会って帰ってすぐのことよ。嘘みたいだけどほんとの話で、なんであんな勘違いしたんだろって自分でも笑っちゃう」
 これもふたり目という余裕が適用されているのだろうか。さすがに落ち着いている。
 私が慌ててたって仕方ないんだから、と思い直し、気を落ち着けるためにも、雅はおとなしく博に連絡を入れてくることにした。
「みどさん、これってどうやって電話かけるの?」
 絶句され、笑われ、教えてもらって玄関口まで出る。雅はこの産院をはじめて知ったのだけれど、周りがキャベツ畑の、と言ったら博にはすぐにわかってくれた。
「なんか……どうしたらいいのかよくわかんないので、どうなるかわかんないんだけど。帰るときはまた電話するね」
 陽が傾きはじめ、徐々に空気が冷え込んでくる。吹いた風に身震いして、雅は院内に戻った。
 美鳥は大丈夫だろうか。病気ではないのだから……と思う一方で、でもあんなに蒼い顔をして、とそわそわしてしまう。
 階段を上がって角を折れたところで、部屋からびっくりするような声が聞こえてきた。
 苦しそうな(あえ)ぎ声。一層はっきりと雅の耳に届く呻きに、皮膚(ひふ)が裂けそうに緊張した。
「ゆーっくり息を吐いて。大丈夫ですからねー」
 途中に、場違いに穏やかな声が聞こえる。医師だろうか。
 分娩室(ぶんべんしつ)ではないから看護師さんかな、でも予定日より二週間早い。二週間ってどうなのだろう、誤差の範囲なのだろうか。二週間。十四日。長い気がする。
 何も知らないから余計に怖い。雑多なものが脳内を駆け巡る。
 今この場にまったく関係のない、昨日食べた夕飯のおかずだとか、椿(つばき)(さかき)と彼方と雅、四人でホットケーキを焼いたこと、博の今日のシャツの色。それらが、ベッドの手すりを掴んで苦しんでいる美鳥の姿に重なったり通り過ぎたりする。
 つい一時間ほど前、美鳥は「すごく痛い」と笑いながら言っていた。そのときと今の美鳥は別人みたいだ。
「雅っ」
 突然名前を呼ばれ、びくりと身体が強張(こわば)った。
「雅!」
 ドアも閉められずにいた雅を見つけて、美鳥が半ば叫ぶように呼んだ。泣きそうになりながら美鳥の傍へ急ぐ。と、伸びてきた美鳥の手が思いきり強く雅の手を握りしめた。信じられないほどの力に驚く。汗ばんだてのひら、色を失った指先。
「み……みどさん、」
 周りに誰かいる。先ほど声が聞こえたのだから、いる。医師か看護師かわからないが、きちんと美鳥を()てくれている。
 わかっているのに、目に入らない。不安ばかりが肥大(ひだい)していく。
 ――ふたりとも元気でいてほしい。
「みどさん、大丈夫だからね! 大丈夫だから!」
 美鳥の指が喰い込んでくる。
 痛い。



 生まれたのは男の子だった。これでもかというほど大きな声で泣いた、元気な子だった。
 急いでやって来た美鳥の両親と挨拶を交わし、美鳥にまた見舞うことを約束して部屋を出た。
 ――すごいものを見た。
 back  |  next



 index