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 美鳥の呻きや赤ん坊の泣き声を思い返す。彼女に握られていた手を、もう片方のてのひらで包んだ。くっきりと爪痕(つめあと)が残ってしまった手。
 美鳥が消えていった分娩室の前の椅子に呆然――というよりも、愕然(がくぜん)とした顔で固まって座っていたら、様子を見にきてくれた年配の看護師に、
 ――これくらいで済んでよかったわねえ。
 と呆れられた。骨折することもあるらしい。
 ずっと握っていたような気がするけれど、(すき)を突いてすぐに引き離してくれたのかもしれなかった。なんの記憶もない。時間の感覚も消し飛んでいた。
「雅」
 呼ばれて顔を上げた。濃い茶色の髪、やさしい鳶色(とびいろ)の瞳。博は、産院の正面玄関の脇に突っ立っている雅を見つけると、慌てたように駆け寄ってきた。
「中で待ってたらよかったのに。寒かったでしょ」
 空にはもう、星がちらちら光っている。博の手に頬を包まれてはじめて、雅は自身が冷えきっていることに気づいた。
「雅?」
 無言で博を見つめる。次の瞬間、ぼろりと大粒の涙が頬を伝った。博がぎょっとして息を()む。
 ――人間ってすごい。
 大丈夫だと美鳥に言った、あの言葉は自分自身への鼓舞(こぶ)だった。雅が大丈夫だと信じなければ、美鳥と子どもが大丈夫ではなくなってしまう気がしたのだ。
 だから必死に繰り返した。
 結果は、大丈夫だった。
 ――人間ってすごい。
 命をつくることができる。
「表現方法に問題があったりとか、お互いとんでもなく未熟で衝突がいっぱいあったりとか……でも、子どもがかわいくないわけないね」
 車内でしゃくり上げながら精一杯で言った。
 世の中には、どうしたってそこに含まれない場合がある。命が必ずしも産み落とされることを約束されているわけではないように、愛情もまた、約束されているわけではない。幸福も。
 わかってはいるけれど、雅はそう思った。
 美鳥が言っていた。
 ――かわいくないけど、愛おしい。
 きっと、そういうことなのだ。
 雅にはそれがすべてだった。
 助手席で泣く雅に博は微笑み、そうだね、と静かに肯定した。



 髪を結い上げ、帯をきつく締める。姿見で確認して、よし、と声に出した。
「そいじゃ博さん、行ってきます」
「はいいってらっしゃい。ほんとに迎えにいかなくていいの?」
 昼食に一時帰宅しただけの博が、リビングから顔を覗かせる。雅は既に玄関のドアノブに手をかけていた。
「うん。遅くなっても四時か五時だもん、まだ診察終わってないでしょう? 電車で行って帰ってきます。駅までもそんなに遠くないし、歩くのも慣れてるから平気」
 なおも心配そうな顔の博に笑顔で手を振って、家を出た。
 結婚して丸三ヶ月が過ぎた。そろそろかと思っていたところ、やはり電話が鳴った。誰あろう、歌子(うたこ)伯母からだ。予想どおりのタイミングに、雅は電話口でこっそりと笑ってしまったほどだった。
 茶を飲みに来いという誘い方だった。伯母はお茶の先生というやつだから、茶会ということになるのだろうか。伯母と雅のふたりきりのものには違いないだろうが。
 何を着ていこうか迷った。彼女にしては驚くほど曖昧(あいまい)な誘い方だったから、もしかしたら、本当にただお茶をするだけ、茶室とは無関係かもしれない。
 ――気合いだ。
 でも、そう、これは気合なのだ。逃げないという意思。居間で卓を挟んで緑茶だったなら、それはそれでいい。
 雅は思いきって、伯母に(あつら)えてもらった桜鼠(さくらねず)に花づくしの色留袖(いろとめそで)を選んだ。
 誂えてもらったといっても、好みを()かれたわけではない。ある日突然伯母が寄越してきたものだ。誕生日なわけでも、正月なわけでもなかったし、何か祝い事だったわけでもない。それとも、雅に慶事(けいじ)の自覚がなかっただけなのだろうか。
 ずっと着られずにいた。
 伯母に対する反抗心からではない。何故贈ってくれたのかもわからないのに、袖を通すのは礼を失しているように感じたのだ。
 雅は伯母を苦手としているけれど、嫌悪しているわけではない。突然の色留袖について、たった一言尋ねるだけで変わった関係かもしれないのに、それができなかったのは、やはりどこかに恐怖心があったからなのだろう。
 ――でも、もう大丈夫。
 文句ならいくらでも聞く。説教も怖くない。
 そんなものよりもはるかに恐ろしいものを知ったから、伯母の過干渉や厭味(いやみ)に怯える理由がなくなっていた。
 雅が知った恐ろしいものはこれ以上なく尊かった。だからこそ、雅も怖かったのだ。受け止めきれないと思っていた。
 自信がついたわけではない。
 恐怖が畏敬(いけい)に変わった。憧憬(どうけい)さえ抱くほどになった。それだけの違いだった。
 空を見上げると、花曇(はなぐも)りに曇っている。もうとうに桜は散ってしまったから、本来はそう呼べない。けれども、うすぼんやりとした色は花曇りとしか呼べないほど薄紅(うすべに)が残っていた。これを(わず)かも過ぎれば入道雲が光るようになるのだ。
 どこの誰がどんなに同じところで足踏みしていようと、時間はお構いなしに流れるし、季節も(めぐ)る。
 切符を一枚買った雅を見て、初老の駅員が、華があっていいですねえと目を細めた。のんびりとした笑顔につられ、雅も微笑する。
 電車はすぐにやって来た。
 平日の日中、ローカル線に人影は少ない。
 というよりも、雅しか乗っていなかった。あたたかく静かな、電車の走る音しか聞こえない車窓(しゃそう)から、流れる景色を追う。春の風景はのどかで音が遠く、懐かしく、影のない明るさがいっそ寂しい。
 こつん、と窓に頭を預けた。薄く雲がかかっているにもかかわらず、弱い陽光がぽかぽかする。
 雅は、はじめて日本を出たときのことを思い出した。
 高校を中退して、思いつく限りから借金して、フランスに()った。サンキューしか言えないくせに、ディスイズアペンだけの語彙(ごい)しかないのに、渡った先は英語の国ですらなかった。究極の若気(わかげ)の至りとでも言えば済むのだろうか。雅自身、何故フランスを選択したのか、未だにわからない。
 そこで泣き、(わめ)き、叫んで、謝って。
 感謝、して。
 どんなやさしさに触れられても痛かったし、どんなにやわらかなものが触れても傷ついた。
 新しく出来た、雅を大切にしてくれるひとを傷つけた。
 死にたいとは思わなかったけれど、いつだって死にそうだと思っていた。
 それでも必死で生き抜いた。だから今の雅がある。
 『ありがとう』と『ごめんなさい』と『おなかへった』。この三つを言えればどんなところでも生きていけると思う雅が。
「そんなに、許さないで……」
 願いはあまりにも弱々しく、雅の口から零れ落ちた。音になるか否かの呟き。
 博のやさしさが痛い。それは雅がもっとも惹かれたところでもあったはずなのに。
 博の(ふところ)の深さは、時折雅を怯えさせた。やさしさには追い詰められた。
 気づくと、腕をきつく握りしめていた。慌てて手を離し、(しわ)を伸ばす。
 雅には傷つけることしかできない。そう思っていた。でも、本当に? 雅は博を傷つけてしまうけれど、それしかできないというのは真実だろうか。
 彼は雅のどこを想ってくれているのだろう。
 目を閉じた。
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