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 どこを、ではないのかもしれない。雅だって、博のどこか一部分を想っているわけではない。
 (まぶた)を開く。眠たげな春の顔が、窓の外に広がっている。
 数年前、雅は博を信じるという覚悟を決めた。
 ――これは覚悟なんだ。
 腹を(くく)るときだ。窓に(もた)れさせていた頭を立て、姿勢を正す。背筋が伸びるほどに、気が引き締まる。



 予想どおり、通された茶室には雅以外の姿はなかった。
「ぼんやりしていないで、お座りなさい」
 厳しい声に促され、(ひざ)を折る。伯母は無言で茶を点てはじめた。
 ここは別世界みたいだ。
 雅は母の実家に来るたびに思う。絶え間ない水音に重なって、鹿威(ししおど)しの硬質な音が一定の間隔を置いて響く。
 裏の竹が風に揺れてざわめき、そのにおいを連れて吹き込む風は、常に濡れた土のように冷たかった。
 周囲にほかの住宅もなく、奥まったところに位置しているため私道しか通っていない。この日本家屋は、いつ来ても音らしい音――人間の気配を感じさせるそれが極端に少なかった。世界中に自分ひとりきりにされたように錯覚できる。
 雅はそれが嫌いではなかった。ひとりでいるのは落ち着く。
 湿ったような黒い柱、入れ替えたばかりらしい(たたみ)の青いにおい。茶を点てる音が意識の底で続き、ふつりと途切れた。いつの間にか閉じていた目を開ける。伯母はやはり、無言で茶碗を雅の方へ遣った。
 どうしようかと迷い、雅も無言で受け取る。
 茶は苦かった。
「雅さん」
「はい」
 風が吹き、竹が鳴る。伯母の声は(りん)と響く。それが、もうこの世にはいない祖母に似ていた。茶道や華道、礼儀作法、そして着付け。雅はすべて、祖母に教わったのだった。
 幼い頃、厳格な祖母はひたすら怖かった。けれども、雅は彼女を(した)っていた。
 伯母がふと、溜息(ためいき)をついた。そして、次を迷うように視線を戸惑わせる。
 彼女のそんな素振りを見たのははじめてだった。
 伯母はしばらく沈黙し、意を決したように息を吸った。
 緊張した。
 けれど、伯母は雅が心に思っていたこととはまったく関係のないことを口にした。
「あなた、最近()せたんじゃないの」
 至極(しごく)、面倒くさそうに。不機嫌そうに眉間(みけん)に皺を寄せて、仕方なくといったふうだ。
 自然に頭が下がった。
 申し訳ありませんと、ありがとうございますと、どちらを選択しようか迷い、後者を選んだ。
 畳についた手が震える。
 声まで震えないようにするのが、今の雅の限界だった。
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