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キスのむこう






 夜中、目が覚めた。
 一度寝入ってしまえば朝まで目を覚まさない(みやび)には珍しいことだ。目は閉じたままだったのだが、意識が急速に()えていくのに(ともな)って、(まぶた)も開いてしまった。
 暗い天井。休んでいる電気。時計の心音。
 首だけ(ひね)って、隣で眠っている(ひろし)を見る。彼は大抵雅よりも遅く就寝し、早くに起床する。そのために、雅は博の寝顔をあまり見たことがない。
 博は雅の方を向いて、静かに寝息を立てていた。
 やわらかに(ひたい)(こぼ)れかかる濃い茶の髪、くっきりとした二重瞼(ふたえまぶた)。そろそろと指を伸ばし、(ほほ)に触れてみる。博に触れるのは久しぶりな気がした。
 くすぐったかったのか、博が少し(まゆ)を寄せる。うーん、と(うな)って枕に顔を沈ませる仕草がなんだかかわいくて、雅は笑ってしまった。
 髪を引っ張ってみたり、耳朶(みみたぶ)を引っ張ってみたり。ひとしきり顔を突ついて気が済んだところで、ベッドを揺らさないように注意しながら博ににじり寄った。
 恐る恐る身体を寄せて、胸にくっついてみる。確かな鼓動に安心して、目を閉じた。パジャマの薄い布越しに伝わる体温。吐息が震えて、胸に額を押しつけた。
 きつく目を閉じ、深呼吸をする。自分自身、信じられなかった。はじめての思いに戸惑う。
 博に触れたかった。触れてほしい。
 涙が浮かぶ。どうしてこのひとは、こうなのだろう。
 博と出会ったのは、高校をやめてからだ。だから多分、十六の夏頃だろう。その状況云々(うんぬん)についての記憶はほとんどないが、予感めいたものはあったのかもしれない。ひとの名前と顔を覚えることを大の苦手とする雅が、かなりの間隔を()けて二度目に会ったとき、すぐに博を思い出すことができたのだから。
 ただ、そのときはまだ、博を特別意識するようなことはなかった。
 ひとつのことを思い出すと、関連事項が次々に浮かび上がってくる。思考を遮断することができず、そうするつもりもたいしてなく、雅は自身の考えるに任せた。行き着く答えなどひとつしかないのだ。今までずっと、認められなかっただけで。
 ――あれは何回目だったんだろう。
 ぼんやりと思った。
 博にはじめて好きだと言われたのは、はじめて会ってから数えて何度目だっただろうか。十七の秋か、冬か。晩夏だったかもしれない。
 その頃からだ。止まっていた生理がまた来はじめたのは。
 高校に入学した頃から、ほぼ一年以上生理が来なかった雅にとって、それは衝撃だった。生理がなかった理由は判然としない。精神的なものだったのだろうという見当がつくくらいだ。
 性別なんてどうだってよかった期間。雅には、女である必要はなかった。
 そっと、博の背中に腕を回してみる。そうしてみてはじめて、これまで一度も博を抱きしめたことがなかったことに気づいた。雅は、博の背中の感触を知らない。
 ぱっと離れ、毛布を頭まで被って背を向けた。
 キスしたいと感じている自分が怖い。触れてほしいと思ったことなどなかったのに。
 どうしてこのひとは、こうなのだろう。
 ――このひとは。
 ぎゅっと目を閉じる。毛布を握りしめた。

 ――このひとは、私を女にする。




 人間てのは、なんでセックスするんだろう。
 雅はまず、そこから考えてみることにした。
 どう考えても、あの行為は今や生殖とは切り離された、一般大衆の娯楽と成り下がっている。
 と、いうのは娯楽に対して失礼だが。
 むろん、生殖行動であるという事実もなくなったわけではないのだが。
 コミュニケーションのひとつとして認知され、避妊なんてものまであり、しかもそのやり方、楽しみ方までが一冊の本にまとめられて、あまつさえそれがバカ売れするこのご時世。世も末だ。
 人類規模の出生率ではなく、繁殖力が未だに(おとろ)えていないことにも驚く。確か、個体の寿命が長ければ長いほど、繁殖力は低いはずだ。
「……あれ、違ったっけ? 一回の出産における子どもの数が少ないんだっけ。……これ、が、ええ? これが繁殖力が低いっていうことなんだっけ? あれ? ……あれ? 私何考えてた? わからなくなってきた」
 雅はベッドの上で胡坐(あぐら)をかいて、濡れた髪をわしわし()いている。
「寿命……寿命か。寿命は人類規模で平均取ったら、それこそたいして変わってないかなあ」
 有史以来とすれば、実際それほど大きく変動はしていないのかもしれない。大体、人口の爆発的な増加はここ最近の話だ。さすがに十年二十年のことではないが、人類の歴史でいえば『ついさっき』の話に違いない。
「…………うぅ」
 理屈で攻めることで自分を落ち着かせようと必死なのが、我ながら滑稽(こっけい)だ。涙ぐましい。
 ――はじめてなわけでもないのに。
 どうしてこんな気になったのやら、――違う、そうではなくて。いや、違わない。そうでないことはない。
 ――でもそうじゃない、違うんだよ。
 どんどん混乱してくる。
 今日に至るまでに、即断即行の雅には信じられないほど、何日もまごまごと悩み続けた。ひとりで泡を喰うようにもがき、でもこの事態を招いたのは自分なのだからと自己説得し、その繰り返しの末に出た言葉が、
 ――博さん、いっしょに寝よ。
 だったのだから、情けないことこの上ない。
 ――いいんだ言葉は伝わればいいんだから!
 強気に思って、ああでも凄いことを言ってしまったような……とまた落ち込む。
 駄目だ、(らち)があかない。(きり)もない。雅はぶんぶんと(かぶり)を振り、無理矢理思考を戻した。
 こんなふうに、セックスがひとつのコミュニケーション、一種の娯楽として成立してしまっているのならば、それをやらない、という選択肢があってもいいのではないか。
 なんとはなしに思ったことだったのだが、自分で「そうだよなあ、あってもいいのに」と思った。
 この場合、やらない、というのは、「ごめんね、今日はそういう気分じゃないの」という意味ではない。性欲を感じない身体だってあってもいいのではないか、という意味だ。
 けれども、いわゆるアロマンティック・アセクシュアルというのとは違って――
 男でもない。
 女でもない。
 性と何ひとつ、子どもの小指の爪の先ほどの接点も持たずにいられる心と身体。
 そう、たとえば、ふわふわとやわらかく、かわいいだけのぬいぐるみのような。
 どうしてそんな身体を持った人間が出てこないのだろう。
「……どうしても何も、身体的にも精神的にも男女どちらにも属さないって、……難しいか」
 世界は広いから、もしかしたらいるのかもしれない。でも、圧倒的どころではなく少数派だろう。身体はとりあえず性染色体(せいせんしょくたい)で決定されるのだ。クラインフェルター症候群は医学的には男性なわけだし、どうあれ男女どちらかにふり分けられる。
 精神的にはどうだろう。こちらは表立って知られていないだけで、結構いるかもしれない。
 一時期の雅にあった、女である必要がなかったとき。あのとき雅は、女である必要がないのと同程度に、男である必要もなかった。生活に強い男性性が不可欠なわけではなかったのだ。
 意識をしたことすらなかったのだから、ほんとうにどちらでもなかったのだろう。薬局でアルバイトをしていたというのに、実は、生理の存在すら忘れていた。長らく生理が来ていない自分を疑問にも思わなかった。再開されてはじめて、ああそういえばそうだったんだと気づいたのだ。そして驚き、恐怖した。
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