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 けれども、男でありたいと思ったことは一度もない。生理の有無と意識はともかく、女であることは一応理解してはいたのだろう。
 あのときの雅にあったのは、強いて挙げれば、性に対する嫌悪感だった。
 男女の別なく、(けが)らわしいものと感じていた。思春期の少女の潔癖といってしまえば終わりかもしれない。が、当時既に雅は十七、八。性的な事柄に関して、憎むほどの潔癖を抱く年頃は過ぎているように思う。
 個人差という単語を出されれば切り返しあぐねるが、それにしてもひどかった。
 それもこれもすべて、恐怖に支配されていたからだと、今ならわかる。
 雅はずっと怖かった。
 嫌悪の気持ちよりも、愛好の心が。
 誰かを特別に好きになったら、世界が変わってしまうかもしれない。知らないことや見たことのないものは楽しみにできる。でも、ひとだけは駄目だ。
 誰かたったひとりのために世界が変わってしまったら、何も見えなくなってしまうかもしれない。そして、特別に好きになった誰かを、自分はきっと傷つける。
 性を()まわしく感じているのだ。世界が変わってしまうのも、好きになった誰かを傷つけるだろうことも、雅にとっては少しも大袈裟(おおげさ)なことではなかった。
 傷つけられるだけならいい。やり過ごし、(ある)いは()えるのを待つ。安らかな暗い場所を見つけて、息を(ひそ)め、(うずくま)って、立てるようになるまで待てばいい。
 でも、もしも傷つけてしまったら?
 真実の意味で責任を取ることなど、本当に可能なのだろうか。傷をつけた責任を取って何々しますと申し出られたところで、傷が消えるわけではない。なかったことにはできないのだ。放たれた言葉と同じで、取り返しはつかない。
 傷の遣り取りなしで人間関係が成立し、ずっと続けていけるなんて、雅だって思っていない。けれど、それをわかっていても哀しくなるのだから、臆病な雅は隠れてしまうしかなかった。
 生命に直結するセックスは、もっと怖かった。
 楽しむなんて考えられない。そもそも嫌悪があるのだ。触れ合うだなんて気持ちが悪い。そんなふうに思っていた。
 もしも好きなひとができて、相手も雅を好いてくれても、抱き合うなんてきっとできない。自覚があるのに相手の好意に(こた)えるなどということも、雅にはできなかった。
 雅の中は、マイナスの『かもしれない』で(あふ)れ返っていた。
 自分が誰かに愛されると思えない。家族以外の、その上男性ならばなおさらだ。
 なのに、博は、好きだと言う。雅に、真っ直ぐ好きだと言ってくる。
 受け入れられない理由をうまく説明できる自信はなかった。大体、こんな理由、あなたは汚いと責めているのと変わらない。絶対に口に出せないと思ったし、何故か愛されているらしい自分を持て余してもいた。
 雅は泣いた。
 博はめげなかったばかりか、面倒くさがりもしなかった。ただ黙って、やさしい沈黙で雅を包み、あたため、自分勝手に傷ついた雅の傷が癒えるのを待ってくれた。
 彼は、決して傷に触れようとしなかった。無理に治させようともしなかった。
 雅はどうしようもなくなった。
 気づけば認めるという選択しか残されていなかった。責苦(せめく)でも、非難でもない。悲愴(ひそう)もない。ゆっくりと時間をかけるのを(ゆる)されて、向き合うという現実をやっと知ったのだった。
 何より、その頃にはもう、怖がることに疲れていた。
 傷つけるのは相変わらず恐ろしかったけれど、雅は結局博の手を握り返した。彼の、いつも少しだけ消毒薬のにおいがする、乾いたあたたかい大きな手を。
「……娯楽……楽しみ……楽しみかあ……」
 ひとり、こくんと首を傾げる。
 どうしてひとりでは満足できないのだろうか。
 ただ快楽を得るというのが目的ならば、色々そのための道具だってあるのだ。
 偏見で申し訳ないが、絶対にグロテスクに決まっている。なので調べてみる気にもならないが、種類は豊富だろう。何せ本がバカ売れなのだ。
 そんな具合なのだから、ひとりでだってなんとかなりそうなものなのに、何故それではいけないのだろう。
 そもそも、と雅は腕を休めて溜息(ためいき)をつく。
 そもそも、セックスがあんなんなのがいかん。
 たとえば、
 ――お客さん、()ってますねえ。
 ――そうなんですよー。デスクワークがつらい日々です。あ、もうちょっと右お願いできますか。ああ、そこそこ。あああ気持ちいい。
 というような気持ちよさならいいのに。
 息は切れるし、妙な声は出るし、場合によっては病気や妊娠に怯える破目(はめ)になるし、疲れる。思い起こせば恥以外の何ものでもないアレは一体なんなのか。
 なんで、あんなことをしたがるのだろう。しないではいられないのだろう。
 どうして自己完結ができないのだろう。
 好きだから抱き合うのだとか、理屈なんかないだとか。そんなものは、この場合はなんの答えにもならない。だって、好きでなくてもセックスをする人間はいるではないか。行為そのものを目的にするひとだっている。
 何より、それらの答えは曖昧(あいまい)で不確かで、そしてある意味一種の逃避だ。深く考えないでいられる。
 そして、言葉の響きはとても美しい。
 雅はまったく納得できない。
 愛や恋が、種を存続させる生殖行動を円滑にさせるための脳による錯覚であると仮定したとき――というか、雅は、はっきり言ってしまえば所詮そんなものだろうと思っている。ともかく、生殖を目的にしているわけでもないのに性交渉を持つのは、エネルギーの無駄だとしか思えない。
 愛情を伝える方法は、ほかにもあるのに。
 一体、脳内ではどんなプロセスを経て、「このひとと抱き合いたい」と心に認識させるのだろう。
 数日前の雅が思ったように。
 そしてそう認識させるのは、どうしてなのだろう。
 妊娠は困るけれどセックスはしたい、というのは。
 どうして人間は抱き合うのだろう。好きだと伝え、伝えられなければ、不安になってしまうのだろう。
 雅は博とセックスしたくないわけではない。
 ただただ怖い。
 その意味も、自分自身も。
 雅にとっては、『どうやって』セックスをするのかよりも、『どうして』セックスという行為に及ぶのかが重要だった。でも、誰もそんなことは教えてくれない。教科書にだって書いていない。
 抱き合うひとびとは、どうやって自分の気持ちと折り合いをつけているのだろうか。
「みーさーん」
「ふぁっ?」
 突然、後ろから博に抱きすくめられた。びっくりして()頓狂(とんきょう)な声を上げてしまう。自失していたらしい。
 博が乗ってきたことで、可哀想なベッドはふたり分の体重を支えなくてはいけなくなってしまった。苦しそうにぎしりと泣き声を上げる。
 その音に、雅はまた難しい顔になった。
 ――ベッドが(きし)むのもいやなんだよなぁ。
 雅の肩に額を乗せている博の髪が、頬をくすぐってくる。何故だか不思議に安堵(あんど)した。
 でも、雅はこんなときいつも、人間の男性に抱きしめられているという気がしない。
「……博さん、犬みたいだよ」
 そう、犬だ犬。
 雅がくすりと笑って言うと、博は、雅を抱きしめたままで「うん?」と()いてきた。
「私、今、めちゃめちゃ人懐っこくてでっかい茶色い犬に、遊んで遊んでってじゃれつかれてる気分」
 博の髪を、からかうみたいによしよしと撫でる。博はあははと笑った。
「犬ね。でもみーさん犬好きだよねえ。いいや犬でも」
「いいのか……」
「でも遊ぶんなら、大人の遊びにしましょうよ」
「うわあ……」
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