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「も、ってことは否定ではないと」
「その自信はどっからくるの?」
 小憎たらしいくらい幸せそうににこにこしているほっぺたを、むぎゅっ、と(つね)ってやる。
 上機嫌な博は、不機嫌を(よそお)う雅の細い指先を取って、一層にこにこした。
「雅は本当に嫌なことは嫌だって言うから。それを知ってるからね。俺のこと嫌になったら、雅は不倫じゃなくて役場に走って、離婚届突きつけてくると思うから。今のところその気配はないから、俺は、雅に惚れられてるって自惚(うぬぼ)れてる」
「……」
 理屈で片付けるのは、難しい。
 不可能かもしれない。
 だって、――でも。そんなことを考える雅ですら。
 痛むんだ、この心が。
 泣きたくなるんだ。
 確かに反応する。このひとだけに。
 博は雅と目を合わせて悪戯(いたずら)っぽく、
「……んだけど、違う?」
 と(たず)ねてきた。雅は赤くなって目を()らす。
 ――訊くなばか。
 全然違わない。
 博はやっぱり、ひとを許すことができるという点において天才なのだ。彼の根本はいつも揺るがない。
 愛や恋が、種を存続させる生殖行動を円滑にさせるための脳による錯覚であると仮定したとしても、そしてそれが真実で真理だとしても、それが常識として世の中に浸透したとしても。
 ――きっとどの瞬間にも、何かや誰かに恋をしているひとがいて、愛してるって言いながらキスを交わすひとたちがいるんだ。
 愛や恋を科学的に解明しようとするひとたちだって、確かに恋をするのだ。
 そう考えられる自分が不思議だった。
 苦しいほどだと思った。
「まだ、寝ないでしょ? ひとのこと誘っといて」
 耳もとに(ささや)かれて、頬が熱を帯びた。
「もう、やだ……ばか」
 びしり、もう一発でこピン。
 その指は、博のそれに絡め取られてしまう。ベッドにそっと押さえつけられて、額や頬にキスが降ってきた。
 身体が震えた。怖いほどに。
 博の身体は、雅に()う。
「雅」
「なんですか」
「好きだよ」
 唇にキス。
 なつかしい。
 泣きたくなるほどやさしい。
 博のてのひらの下から逃れた両手で、赤らんでしまった頬を隠すように顔を(おお)った。
「もう……そういうことあんまり言わないでってば」
「無理。口が勝手に動く」
()いつけるよ」
「いいよほどくから。ほら、手、どけて」
 言いながら手を取られ、深くキスされる。
 泣いたらだめだと胸の中で繰り返し唱えた。零れてしまいそうだった。
 博は唇を触れ合わせたまま、雅に囁く。
「したいって、言って。たまには」
「……や。言えないそんなの。も、いいじゃないっ」
「あんなんじゃわかんないよ。ちゃんと言って。なんでもそうだけど、何々してほしいってあんまり言ってくれないから、雅にねだられるの憧れてるんだ」
 顔を(そむ)けようと思うのに、(あご)を捕らえられて許してもらえない。それだって、決して強い力なわけではないのに。
 低い囁きに、(かす)かに触れる吐息に、確かな体重と温度に、溶けてしまいそうになる。
「いっつも俺から誘ってばっかりじゃ、無理強(むりじ)いしてるみたいで心苦しいよ」
「無理強いされてるんだったら、私今頃ここにいないもん」
 憎まれ口を叩いてみるけれど、どうにも響きは頼りない。博は(つい)ばむようにキスしながら、
「言って。一回でいいから」
「やだ」
「したい、って。雅」
「しつこい。……やだってば……」
 ――ごめんね。
 いつかの博を真似て、心の中で謝った。
 雅が困惑しきった表情で拒むたびに、博は微笑して何も言わずにいてくれた。それに甘えていたこと、ずっと博を傷つけていたこと――セックスの有無ではなくて、ただひどく傷つけていたのだと思い知った。
 ――ごめんなさい。
 おずおずと、博の首に腕を回す。
「じゃあ、好きって」
「……っもうっ……やだぁ……ばかっ」
 せっかく直したパジャマを取り払われた。考えるまでもないことだったとはいえ、緊張してしまう。しかも、何か言えとか要求された。これは想定外だ。
 裸の脇腹を撫でられて、雅はびっくりしたような声を上げてしまった。
 あたたかい、少し乾いたてのひら。整えられた指先。博の手はきれいだ。
 悔し紛れにぽこんと頭を(はた)いてやるのに、博は笑って雅に飽かずキスを落とす。
「好きだよ、雅」
「わかったってば」
「雅は?」
「……」
「みーさーん」
「ひゃっ? 変なとこ触んないでよっ」
「どうせこれから全部触る」
「そういうこと言うなっつーのに」
「……実況中継しようか」
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