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「わかった! 言いますよ言えばいいんでしょっ」
 とは言ったものの、口は素直に動いてくれなかった。
 ――ひとは。
 ひとは、どうしてひとりでは満足できないのだろうか。
「……雅」
 博にそっと呼ばれて、雅は目もとを隠してゆるゆると首を横に振った。
「……名前、呼ばないで……お願いだから……」
 深く吐息する。
 博の指先があまりにも静かで、雅は、自身を傷つけ続けている幼い恐怖を、秘密にしていていいものではないのだと思い知った。
 ――ひとりじゃ、心まで愛撫(あいぶ)してもらえない。
「――……」
 傷が(つの)る。
 積もっていく。
 もう何度目か、数えきれないキスが触れる。
 涙が盛り上がった。
「……あのね」
 もう、秘密にしてはいられない。
 ――心まで触れてほしい。
 雅の心の、いちばん無防備で純粋で、いちばん(もろ)くて(みにく)い部分。
 博にだったら見せられる。
 触れられて、もしも激痛を感じたとしても、それ以上に安らかになれる。
「私、自分が女だっていうのが怖いの」
 零れた涙が耳を伝い、髪を濡らした。
「すごく汚い気がするの」
「……うん」
 博の指先が、乱れた前髪を愛おしんで撫でてくれる。
 雅は両手でくちもとを覆った。
「汚らわしい気がするの。気持ち悪いの」
 どうしよう。止まらない。
 言葉以上に、涙が溢れる。
「だめなことのような気がするの。こんなこと、したらだめな気がする」
「雅」
「いやなの。女なんて……(よど)んだ、どろどろの黒い血の(かたまり)みたいで……ほかのひとに対しては全然そんなふうに思わないのに、どうしてかわからないけど自分はだめなの。気持ち悪い。女の私は汚い気がして、だからいやなの。こういうことしたら、自分は女なんだって思い知らされるから……汚いところを突きつけられる気がして、怖いの。すごくこわい」
 幼稚なことを言っている。
 でも、雅の本心だ。
 包み隠していない、無垢(むく)な本音だった。
「こんなふうに思ってるって知られたら、博さんのこと傷つける。それもいやなの。でも、失望されるのもいやで、こわくて、でもどうしたらいいのかわからなくて」
「……雅」
 逃げられない。
 あどけない潔癖と百年の夢を抱くような恐怖。
 雅をつくり上げる陰鬱(いんうつ)(かげ)り。
「私……わたし、」
 ――哀しい(とげ)をいっぱい立てて、必死で自分を守ろうとしている。
「博さんに嫌われるのがこわいの!」
 隠し続けた哀切(あいせつ)は悲鳴じみて、涙とともに響いた。
 ――ああ。
 なんだ。
 あんなにあれもこれもと手当たり次第に拾い上げて悩み考え、泣いたのに。
 やっと見つけ出せた真実は、
 ――嫌われたくない。
 好きなのだ。
 ずっと一緒にいたい。
 痛いくらいに抱きしめられて、雅は産声(うぶごえ)のような泣き声を上げた。
「雅が汚い女だったことなんて一瞬もない。雅はきれいな女性だよ」
「こわいの! 怖い……っ」
「泣いて少しでも怖いのが休まるなら、いくらでも泣いて。失望なんかしない。俺ならもう傷つかないよ。……雅。どうしてもだめなら言って。そこまででやめるから。けど、そのことで雅を嫌ったりなんかしない」
「うそっ」
「嘘じゃない。好きなんだよ、雅。だから触れたい。これは悪いことじゃないよ」
「でも、わたし……わたし、きたない……っ」
「きれいだよ。透きとおってる」
 そんなの嘘だと、否定を重ねられなかった。
 涙のむこうに見た鳶色(とびいろ)の瞳が、はじめてキスしたときの体温ほどにやさしかったから。
 雅の激情を怖がらない博が、甘やかに微笑む。
「好きだよ、雅」
 囁きはすべて満ち足りていた。
 雅は何も言えなくなった。



 これまで雅はあまり声を漏らすことをしなかったのだけれど、(こら)えきれずに恥ずかしいほど声を上げてしまった。湧き上がる恐怖に博の胸を押し返そうと手を伸ばし、(かす)めるように指先に触れた素肌の感触に震える。
 背中に腕を回させられて、息も()げないほど激しく揺さぶられ、思わず爪を立てた。
「あ……」
 博が僅かに眉を顰めたことで雅はそれに気づき、慌てて手を緩めようとした。ごめんなさい、と言おうとして唇を開く。
 乱れた呼吸の合間になんとか告げようとして、でも口を突いて出たのはまったく異なる言葉だった。
「――すき……っ」
 あとのことは、よく覚えていない。
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