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フラワー、フラワー






 (みやび)は数度国外に足を運び、そのたびに(ひろし)のところへ帰ってきた。
 その前に彼女は約束どおり美鳥(みどり)を見舞い、さらに五月が終わる頃にはようやっと彼方(かなた)に着付けを教えることに成功したらしいのだが、今現在も雅と彼方は互いの家を行き来している。子どもが大きくなれば、遠方の美鳥も時折は人数に加わるだろう。
 ついでに、小鞠(こまり)がいつの間にか、彼方とも美鳥ともしっかり友人になっていた。
「一年って早い」
「それって(とし)取った証拠だよ博さん」
 それにまだ一年終わってないよ。
 隣で笑う雅の表情は明るい。
 空は高く雲が流れ、紅葉も深まる季節だった。
 その日、博は生まれてはじめて、きものの展示即売会というものに足を運んだ。
 展示即売会というよりは、社内販売会だ。平たく言うと、日頃ご愛顧をいただいている、本当に極一部のお客様をその日限定で社員扱いにし、きものその他小物を格安でご提供――というもの。
 正月が近いからなのか、雅が――というよりも、恐らく橘川(きつかわ)家のひとびとが世話になっているという呉服屋から、案内葉書が届いたのだった。
 柘植(つげ)家からは少し遠かったが、「行きたい?」と(たず)ねたとき、雅があまりにも嬉しそうに「連れてってくれるの?」なんて言うものだから。
「うん、行って来るからお留守番よろしく」
 と返されるものだと思っていた博は、ついつい
「どこへでもお供します」
 なんて答えてしまったのだった。
 周囲を見渡す。
 大手百貨店の中にある呉服店は、周囲をプレハブの板に囲まれていた。
 何やら入っている大きな段ボール箱の側面に、思いきりのいい太い黒マジックで、『店長太っ腹ッ!』と書いてある。博はううんと苦笑した。
 中は(たたみ)が敷き詰められていて、その上に色とりどりのきものが広がっていた。
 というか、適当に重ねられ、(ある)いは転がされている。
 確かに太っ腹だ。十万円が三万円になっていたり、ワゴンセールならぬ、先ほどのようなダンボールセールのようなものがあったりする。
 まさか呉服の店先で段ボールを目にする日が来ようとは、まったく思いもしなかった。
 呉服店というとどうしても敷居が高いように感じられるが、実際はそれほどでもないのかもしれない。もちろんゼロがたくさんついた値札のものもごろごろしているのだけれど、いわゆる『ぶら下がり』、つまり仕立て上がりのポリエステルのものもたくさんある。サイズの表記はS、M、Lで、洋服と同じだった。
 普段着と呼べるほど日常に近くなくなってはしまったものだが、肩肘張って着なければならないものでもないのだろう。雅みたいに、「大掃除だから気合入れる」と擦り切れた銘仙(めいせん)(たすき)を掛け、古着屋で発掘したどこぞの酒屋の前掛けで雑巾(ぞうきん)を絞っていたっていいのだ。しゃっちょこばって着るのは礼装だけでいい。
 雅の和装は見慣れていても、呉服屋を見慣れない博は、その極彩色(ごくさいしき)眩暈(めまい)を起こしそうになった。広げた状態のきものは、こんなに大きいものなのか。よくもこんな布を余さず美しく身体に巻きつけるものだと感心する。
 雅がきものを着慣れていることは見るひとが見ればわかるものなのか、反物(たんもの)を身体に当ててみた雅を見て、
「あら、ずいぶん着慣れていらっしゃるのねえ。旦那さん、美人な奥様で自慢でしょう」
 なんてにこやかに言ってくれた。
 博は本気でそう思っていたりもしたので、冗談も出てこずに真面目に「はい」と(うなず)いてしまう。
「みーさんとこって、チェーン店も入るんだね」
 雅の母の実家は茶道の家元(いえもと)だ。それを考えると意外だった。
 あまり詳しく聴いていないが、雅は幼少期、橘川家ではなく、祖母のもとで育てられたのだという。橘川家に帰って家族と過ごすのは、週末だけだったらしい。
「うちはほら、母が縫うから。そのへんもあってね」
 それとなく内容を濁された。博は微笑んで、「そうなんだ」とだけ返す。
 夫婦だからといって、何もかも明け渡さなければならないわけではないはずだ。口にしたくないことは誰にでもある。結婚は個を放棄することではないのだ。
 それでも、もしも必要なときが来たのなら、その際は真っ向から話し合えばいい。
 長い時間をともに歩んでいくパートナーとして、見栄や意地を張っている場合ではないこともある。(すが)りつくより無様(ぶざま)でみっともない情けない姿も、見たり見られたりするだろう。
 知られたくない何かを知られる日が来るかもしれない。
 雅の方が、恐らく博よりもずっと多くの『知られたくないこと』を抱えている。それは後ろめたい隠し事ではなく、幼い日の傷だ。
 不用意に触れ、傷を広げようとは思わない。博自身が傷つくことを恐れているわけでもなかった。
 幼い頃の自分という名の傷は、持ち主が(みずか)(さら)して(いや)そうとしなければ治らない。たとえどんなに深く信頼し、愛情を持った相手だとしても、触れられれば痛いのだ。
 雅は、まだ少しだけ痛がっている。
 いつか雅が泣けるようになったとき、博は彼女を抱きしめればいい。気づかれたくないのだと感じたら、見ないふりをする。それまではひたすら待つだけだ。
 動かない、踏み込まないというのは言葉ほど容易ではないけれど、ひとを尊重するためには、守らなければならない大切なことだった。
 雅の隣にいたいのだ。手を繋いでいたい。博は(おろ)かしく永遠を信じられるほど幼くはないけれど、信じたいという気持ちはある。
「はー。これ五万円? すご……安ーい」
 なんとか店員と離れることに成功した雅は、反物をぽんぽん出しては眺めている。
「普通どれくらい?」
 きもののことなど基礎知識もない博は、差し当たって「色がきれい」程度の認識しかできない。雅の白い手と反物の色を見比べながら尋ねてみた。
 雅はそうだなあと首を傾げる。
「ピンキリだけど。まあ普通に買おうと思えるのは、……どうだろうな。一目惚(ひとめぼ)れして気に入って、どうしても諦めがつかない! これのためなら貯金切り崩しても絶対後悔しない! 放浪も延期! 仕事は増やす! っていうのなら、十万くらいまで……かな? 私は。余裕があるわけでもないし」
「はあー……」
 余裕があるわけでもない中で、貯金を切り崩してまでとはいえ買おうと思えるので十万。和装のカテゴリにおいて、たぶんこれはかなり控えめな金額だ。――ということは……と考えると、結構怖い。博が(うな)っていると、雅はくすりと笑った。
「で、生地代に撥水(はっすい)加工とかするお代もいるからね。あと、普通は仕立て代がそれに上乗せ」
 雅の母親は和裁士だから、仕立て代は浮くのだ。それだけでもずいぶんお得なんだよ、と雅は微笑んだ。
 博は、値札を見て諸費用を加えた金額を頭の中で計算して、
 ――ああ、ごめんねみーさん。プレゼントできる金額じゃない。
 と、溜息(ためいき)をつく。
 雅はそんな博を見て、面白そうに笑う。
贅沢(ぜいたく)でしょう。でも帯はもっとするよ」
「贅沢……贅沢といえば贅沢なのかなあ。買うだけ買って箪笥(たんす)()やしなら贅沢だと思うけど、雅、着るでしょ?」
「そりゃそうよ。着るものなんだから買ったら着るよ」
「だったら贅沢とはちょっと違うんじゃない?」
「そう? 日常になくても困らない以上、贅沢品に数えていいと思うけど」
 正論ではあるのだろうが、大掃除に(のぞ)む戦闘服に銘仙や久米島紬(くめじまつむぎ)を着る雅が言っても、説得力にはやや欠ける。
「そう……そうかあ……」
 でも、普段ものを欲しがることをしない雅だから。
 きものが贅沢品であるというのなら、質素倹約が染みついているような雅の、これが唯一の贅沢な気がする。
 放浪は贅沢には含まれない。彼女の根幹を安定させるものだからだ。
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