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 雅は好意を持っている人間としか飲まない。それを知っているから、博にはそれも嬉しい。
「だからまあ、プレゼントは私で我慢してよ」
 雅は、おろしたての帯を締めていた。海老茶に白いうさぎ模様の帯。ナカさんに(すす)められた帯揚と帯締め。着ている黒八丈(くろはちじょう)が特に気に入りのきもののうちの一枚であることを、博は知っている。
 これ以上、どんなものが欲しいというのだろう。
「俺にはもったいない贈りものだよ」
「そこはありがとうってもらっとくところでしょう」
「ありがとう」
「よしよし」
 雅の表情はやわらかだった。
 静かに(ひそ)やかに満たされる。かたちにできるものなどではないのだ。ふわりとやさしい、湯気みたいな幸福感。雅は自分で気づいていないだけで、博をとても幸せにする。
 赤いトースターには白いレースのりぼんがかけられていた。博が雅の誕生日に贈った薔薇(ばら)には、緑の細いりぼんが鉢に結ばれている。「お洒落(しゃれ)してあげなきゃ」と雅がやったことだった。
「ねーえ、博さん」
「うん?」
 角に塩を乗せた(ます)を傾ける。枡酒は恐ろしいことに、洗うのが大変なのにやめられない。博がまだ小学生のうちに他界した祖父の気持ちも、酒を(たしな)むようになってわかった。
 幼い頃は、どうしてわざわざこんな飲み方をするのだろうと疑問だったけれど。
 この飲み方でしか得られない美味さがある。
 酒の味を、「苦い」ではなく「美味い」と思えるようになったから知られた、新しいことだ。これが齢を取ったということなら、実に悪くない。
 ――酒が美味いのは心が晴れてる証拠だ。まずい酒は飲むな。
 枡酒を(こと)のほか好んだ祖父が、常々(つねづね)言っていた。
「提案とはちょっと違うんだけど……」
 迷いのない雅は、すっきりとした本当にきれいな顔をしている。
「クリスマスに恋人とふたりっきりなんて、(むな)しくてなんだかやだよねえ。クリスマスっておめでたいものでもないけど、どうせならみんなで(にぎ)やかに楽しくパーティーがいいよねって、思わない?」
 悪戯(いたずら)っぽい目を向けられて、博は苦笑した。「有栖川たち呼ぼうか」と冗談まじりに返すと、雅はそれもいいけどと笑う。
「あのね、本当申し訳ないほど、……欲張りだって自覚はあるんだけど、私、プレゼントが欲しい」
「? あるよ?」
 じっと帯を見る。それに気づいた雅も視線を落として自分の腹部分を見、
「言葉が足りなかった。ごめんね。博さんからじゃなくて、どっちかっていうと神様から欲しいの」
 と言った。
「それは……なんというか、俺がなんとかできる範囲を超越してるよ」
 真面目に取り合ってもらえたのが嬉しいらしい。雅は肩を震わせて笑い出した。
「みーさん、ひどいよ」
 博も笑う。
「ごめんなさい。だって、ちゃんと(こた)えてくれるから」
「そりゃ応えるよ、雅の言うことなんだから。蛸、おいしいね」
「でしょ。やっぱりおでんには蛸入ってないとだめだよう」
 まだわかっていない博をひとしきり笑って、雅も枡の角に塩を乗せた。
 (おさ)えきれない笑みを頬に残して、雅がつと視線をずらす。博もそれを追った。
「きれいに咲くね、薔薇」
「……うん」
 薔薇は冬には咲かないと思っていたのだけれど。
 予想に反して、雅のミニバラはクリスマスのこの時期にも可憐(かれん)な花を咲かせている。リビングという場所がいいのだろうか。
 雅は何を思っているのか、せっかくの枡をくちもとに運ぶこともせず、そのまま薔薇を見つめていた。
 博は、雅のその横顔を見つめる。白い(ひたい)や紅潮した頬、穏やかな黒い瞳を。
「薔薇が欲しい」
 まるで、独り言。
 ぽつりと言ってから、雅は真っ直ぐに博を見据(みす)えた。どこか泣きそうな、やさしい微笑で。
「私に薔薇をください」
「――……」
 驚きが、染み込むように広がっていく。
 雅の表情からは、彼女が何を考えているのかはわからなかった。ただじっと、博を見つめている。
 (たい)らかな、穏やかなやさしい顔だった。
 泣きそうになってしまった。
 様々なことが脳裏を駆けた。
 雅の涙や激情、有珠(ありす)の寂しそうな声。彼方の笑い声や、彼らの子どもを抱き上げたときの重さ、トースターの赤い色、いつかのホットケーキのにおい。
 ゆで卵の(から)()いた日の縁側の明るさや、春の()の暖かさ。
「……きっと、きれいに咲くね……」
 答えると、雅は静かに、丁寧に微笑んだ。
 彼女は、与えられるのを漫然(まんぜん)と期待するようなことをしないのだ。
 誤魔化(ごまか)さない、真っ直ぐに生きる雅の(そば)にいるということ。
 難しいけれど、選んだのは博だ。後悔したことなどない。
「水いっぱいあげないと」
()れちゃうからね。大切にするよ。博さんが分けてくれる薔薇だもの」
 雅は幸せそうに微笑んでいる。
 ストーブの上の薬缶が(かす)かな音を立て、テーブルの中央では鍋が湯気をゆらめかせていた。
 カーテンと窓で(へだ)てられた外は祝いの夜に染まって、冬の星座が降っているのに違いなかった。
 博は目を伏せた。
 指先を伝わる雅の気配が息苦しいほどで、胸は鼓動が止まってしまいそうなほど痛くて、言葉も何もかも一瞬失った。
 つま先まですべて、(わず)かな隙間もなく満たされていた。
 今すぐに死んでしまいたくなるほどの幸福がこの世にあることを、博ははじめて知った。
 人生は発見の連続で、いつだって驚きに満ちている。
 雅と向き合えていることが、彼女と食卓を囲んでいる今が、深海に(ちりば)められて輝く砂金のようにきらめいていた。
 水差しを買ってこよう、と思った。
 口の細い、硝子(がらす)のものがいい。花を驚かせることなく、やさしく水を注ぐことができる。その水は硝子の中で、陽光に反射して美しい虹をつくるだろう。
「雅」
「はい」
 口を開きかけて、
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