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でも、というか、やはりというか。弘は気分を害する様子は一切なく、嬉しそうに笑った。
「先輩と一緒にお花の観察やお世話をするのが楽しいのです」 「…… 確かに小賢しい。どちらかと問われているのに、どちらも好きだという欲張りな答えを返してきている。 とはいえ、この手の質問に有効な返答パターンは実は少ない。どちらか片方を選んだ場合、嘘になるか、 嘘をつかず、相手を落胆させない方法としては、やはり素直に謝って、『あなたを大切だと思うから、あなたを喜ばせたい、そのためには何々が必要』がセオリーでスタンダードだ。 恐らく弘は無自覚で打算なく本気で言っているのだろうけれど。 弘と話していると、 戸惑うほど自分の中に弘がいる事実に、少し、怯える。 思慮深い彼女のことだから、勢いでの結婚の申し込みであったはずはない。熟慮しての断行だったはずだ。そもそも多くの場合は精々がところ付き合ってください、だろう。それを弘はきれいにすっ飛ばした。結婚してください。どう考えてもプロポーズ。恋人同士という過程はない。 そして八代はそれを受けた。 退路を自ら断ってしまったようなものだ。背水の陣を布く暇もなかった。 弘に占拠されていくのが怖い。 今だって自分の足で立てているわけではないのに、その内側に弘のような律した存在が本当の意味で入ってきたら、きっと砕けて壊れてしまう。 「先輩?」 濃い茶の髪を摘んだまま離さないでいると、ふり払う素振りすら見せない 弘がふわりと微笑む。 ――あ。 来る。 八代は心中で身構えた。思わず髪からぱっと手を離す。 「大好きですよ」 「…………やっぱり来た…………」 弘は平気で好きですと言う。臆面もなく。迷いなく。 理解に苦しむ。 「どなたかいらっしゃいましたか?」 八代の言葉を勘違いした弘が、温室の扉方向をふり向く。むろん誰も来ていない。 「な」 「はい」 「なんで」 「なんでしょう」 質問するのも恥ずかしい。何事につけきちんと応対してくれるものだから、実際はたいしたことでもないのに、とんでもなく重大なことのように思えてしまう。 「今の会話の流れで、好きですっていうセンテンスに通じる要素あった?」 なかったような気がするのだが、気のせいだろうか。 弘はふふふと笑う。 「言いたくなったのです」 「……そう」 心臓に悪いからやめて。 ――とは、言えなかった。 突然言われてそのたびに驚き、 弘のせいで不安定になるのに、まるで頃合いを見計らったかのように好きですと言ってくれるから。 言ってもらえると、不思議に 県立成花第一高等学校。いわゆる進学校で、農業高校ではない。農業高校は二十分ほど離れた近所にある。そこではメロンやらブロッコリーやらトマトなんかが栽培されていて、馬はいないが牛はいる。食品化学科あたりは、異常繁殖して生態系を乱す魚を食卓に並べたい気持ちで代々食品加工への知恵を そういった学校があるのに、進学校の成花第一高等学校には、農業高校にはない大きな温室がある。 学校の中庭、屋根がアーチを描く全面硝子張りの美しい温室。 観音開きの扉は大きく、 開校から百年以上を経過している長い歴史の中でいつの間にか打ち 栽培されているのは主に そう――一切ないと思った方がいい。 仕事が温室内にとどまっていないからだ。 学校をぐるりと回り、敷地内あちこちにある、校章にもなっている だというのに。 現在の園芸部員の名簿は実にシンプルだ。 部長、久我八代(三年 副部長、柘植弘(二年桜組)。 ――以上。 ふたり。 だけ。 少ない。 これで回していけというのが無理な話だ。 だが信じられないことに、なんとかかんとかやっている。弘が十人分働く働き者で、八代も八代で要領がいい、というのは確かにある。けれども、その程度で回れば世の中に残業過労などない。 八代が どの学校にも遅刻常習犯にはなんらかの罰則、たとえばレポート提出だとか原稿用紙十枚に反省文だとかがあるものだが、この学校では草取りがそれに当たる。その名も、 ―― 八代が言いはじめたわけではない。歴代園芸部員がそう伝えているだけだ。八代なんかははっきり下僕と言い切っている。 宴に参加する者にとっては呼称などどうでもいい。真夏なんかはペットボトルの水を持参しなければ確実に倒れる。身から出た ところで真面目で優秀な弘はクラス委員長だ。クラス委員は生徒会役員にはなれないので、当然弘も役員ではない。 ただ、優秀なので助っ人要請はかかる。それなりに 助っ人を呼んでいるのにマイナスされる役員は迷惑千万――に思うが、実はそんなことはない。人間誰にも向き不向きがあるものなので、その時々に応じて苦手な仕事に行き当たり、いまいち戦力になりきれていない人間を 役員にとっては、戦力になりきれていない同僚よりも、迅速丁寧確実に働いてくれる研修生の方が重要なのだ。 八代に目をつけられた可哀想な獲物の顔面の 彼はたまに教師にまで手を出す。定期テスト明け、難題の模範解答の難解さに頭を抱える生徒たちを前にして、 |
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