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頬杖をついたまま窓の外を見ると、空はきれいに青かった。
――ピクニックはこういう日にするものなのか。 弘が来たのもこんな日だった。 ――入部希望です。 にこにこして。 ずいぶんやさしくなった風にふわふわ揺れているボブの濃い茶の髪が 入部希望のぺらぺらの紙を丁寧に両手で持って差し出してきた。 ――ああ、いい姓だね。 そう言ったのははっきり覚えている。弘が名乗る前に言った。 入部希望の申し込み用紙、名前の ――柘植弘と申します。 ――うん、見ればわかるよ。柘植はいいね。 まさか続くとは思っていなかった。よくて三ヶ月、早ければ一週間ばかりで 弘自身に興味はなかったのだ。 でも、姓はいいと思った。 ――ご存じですか? 弘は嬉しそうに笑った。たぶん、かなもふられていないのにすぐにツゲと読んでもらえたのが嬉しかったのだろう。八代からすれば意外なことだが、『柘植』はなかなか読んでもらえないらしい。地域的に柘植姓が少ないのだろう。 そしてこれは憶測だが、園芸部の部長さんだから、やっぱりいろんなことをご存じなんだろうなあという単純な喜びもあったかもしれないと思う。 あんまり嬉しそうににこにこしているから、肩の力が抜けてしまうような気さえした。頼りなく見えたのだ。 ――ツゲ科の常緑小低木。高さは大体一メートルから三メートルくらい。春に淡い黄色の花が咲く。残念ながら、鑑賞には向かないね。 どんな反応をするんだろうというちょっとした好奇心で説明してみた。 ――材が そう言ったら、弘は顔を輝かせた。 ――きつねさんも柘植の櫛を使ってくださいます。 ……何を言っているのだろうか。 狐。 狐が櫛を使うのか。 あのイヌ科の獣が。 理解できずに固まってしまった八代に対しても、弘は にこにこしたまま、 ――童謡によりますと、子ぎつねさんは とんでもない馬鹿がきた、と思ったのを実に明瞭に記憶している。 実際弘は馬鹿だった。稀に見る秀才だったが、馬鹿だった。 八代のこころをほどくほど。 疲れて仕方がない。 色々なものが動きまわっている。 これまでが停滞して、ほとんど停止しているようなものだったから、こんなにも短期間にすべての分子が熱せられて活発に動きまわられてはついていけない。八代は基本的に動かない人間なのだ。 おかしくなったのは去年からだ。 弘が入部してきて、彼女が当たり前に温室にいて八代の隣で微笑むようになってから、すべては変わってしまった。 たぶんいい変化だ。 それは認めよう。 完敗して白旗を だから――いい変化だ。 認められるのに何故不安なのかがわからなくて、わからないから一層不安定になっていく。 今日はよもぎ団子ですよ、とのほほんと笑って茶請けを 逆恨みは百も承知で。 放課後はとりあえず穏やかだ。 例のピクニック以降、 放課後はたまに彼らが来るようになっているから、変わらないのは早朝だ。 その時間帯は変わらず弘とふたりきりだった。 作業しながら、ふと不思議に思ったりもする。 ――なんで手、出さないんだろう。 こんな好条件があるだろうか。温室は中庭に位置しているといっても、校舎が不自然に入り組んだかたちをしているから、どの教室に行くにしろ中庭を通ることはまずない。 早朝。 教師だってまだ来ていない人数の方が多い。 放課後。 誰も彼も部活、もしくは帰宅。中庭に用向きなどない。 部員二名、多少の疑問はあるものの婚約者。ふたりきり。 押し倒したことはある。けれど、あれは恐怖からだった。追い詰められた手負いの獣が牙を 本当に行為を求めたからではない。 よもぎ団子を食べながら弘を見ると、彼女はしあわせそうだった。大抵しあわせそうにしているが、食べているときは特にそう見える。なので、今の思い悩める八代には恨めしい。 押し倒すまではいかないにしても、キスくらいはしてもよさそうなものだ。 よくないが。 でも自分ならしそうな気がする。 していないが。 用心深い性格ではある。つけ入られるのが嫌いだから、 でも、生粋の優等生の弘は、ほかでもないこの温室で八代の左瞼にキスをくれた。 そういえば、八代から弘にキスをしたことはない。 「ねえ、柘植サン」 「はい。なんですか、久我先輩?」 また集中してくれていない。 |
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