back  |  next   
 と思ったら、弘はまっすぐ八代を見つめていた。少したじろぐ。
「今さら訊くのも申し訳ないんだけど、あのプロポーズは本気?」
「本気です」
 訊いた俺が馬鹿でしたね。
 八代が淹れた緑茶を飲みほして、平和そうに微笑む。
「ご承諾くださったのは勢いですとか、ご冗談でしたか?」
「もしイエスだったらどうするの」
 本当に――
 ――(ひね)くれた性格だ。
 本気ですとひとこと言えばそれですむのに。
 こじれないのは、弘が寛大さと揺るがない強さを持っているからだ。
 弘は笑顔を崩さない。
「先輩がしあわせでいてくださるのであればかまいません。わたしと結婚して先輩が痛い思いに(さいな)まれてしまっては本末転倒ですから。意味がありません」
 このあたり、弘は馬鹿だし鈍感だ。進歩していない。
 綾野が苛立つのは当然だ。そんな思い遣りはいらない。与えることを惜しまず見返りを求めない、その生き方に触れた人間が不安になることを未だに理解できていない。
 愛しているひとが(つか)みどころがなくやわらかいなんて、何ものにも(おか)されることなく自分を疑わず信じてくれるだなんて、怖い。
 自身がどれほど醜いかを思い知らされてしまう。
「もう痛い」
 ぽつり、と(つぶや)いた。
 もう疲れた。
 まだきっとはじまってもいないのに、もう歩くのがつらい。あと数歩で立ち止まり、座り込み、そうしたらもう二度と立ち上がれない。
 弘が少し、こくん、と首を傾げる。
「先輩、結婚してください」
「それはもう聞いた」
「先ほどの発言に対します申し込みです。今わたしが結婚の申し込みを取り下げても、きっと先輩は痛いと思いますから」
 ――ずるい。
「そこまでわかっててなんであんなこと言うのかな」
「尋ねられたことに正直にお答えしただけです。わたしはあなたに真実を尽くすと決めています」
 駄目だ。
 泣きそうになる。
 泣いたらきっと、弘は抱きしめてくれるだろう。不安にさせてしまって申し訳ありませんと言って、キスをしてくれるのだろう。
 どんなやさしさを受けても痛い。
 自分自身が、氷細工の花のように思えた。技巧は()らしてあるが、それは身を守るための武器だ。人間を味方につけようとしたとき、美しさや珍しさは彼らの興味を()くから。
 美しいかたちを取れている、と思う。けれどその花は、とても(もろ)く、(はかな)く、泡沫(うたかた)が見る夢のように頼りない。だからどんなにやわらかく触れられても傷つくし、ぬくもりに包まれたら溶けて消えてなくなってしまうしかない。
「薬指のサイズを教えていただけますか?」
 そんなふうに笑ってそんなことを言うなんて、やっぱりずるい。突き放すくせに甘やかしてきて、厳しいことを言いながら受け入れてくれる。
「知らないよそんなの。測ったことない」
「でしたら測りましょう。伊織ちゃんは触ればサイズがわかるので、すぐにでもわかりますよ」
「柘植サン以外に触られたくない」
 幼稚で我儘な発言にも、弘はふふっと笑ってくれた。
「光栄です。ですがその前に、ご挨拶(あいさつ)(うかが)いませんとね」
「――……」
 そうだね、と言えなかった。
 答えようと努力をしている。今。でも言えない。
 ――だってきっと、あのひとは俺がどこで何をしていようと興味がないだろうから。
「会えるかどうかも謎だよ。俺ももう顔ほとんど覚えてない。会えばたぶんわかるとは思うけど、自信はない」
「長い間お会いしていないのですか」
「してないね。会いたいと思ったこともないよ」
 よもぎ団子をきれいに食べて仕事に戻る。弘はいつもどおり、ひよこ色のエプロンをかけて、レースのりぼんが巻かれたつばの広い麦藁(むぎわら)帽子をかぶって作業に戻った。
 弘を見る。
 働いている手は常と同じく丁寧で確実だったけれど、思考に沈んでいる顔だった。何か、じっと考えている。
 ――とんでもないことを言い出す前触れだ。
 弘は突拍子もないことを平気で言う。突飛な行動に出る。(きざ)しのようなものをなんとなく感じられるようにはなったものの、中身まではもちろんわからない。
 腕を掴まれ、ご挨拶に伺います行きましょうと言われたらどうしよう、と本気で(おのの)いてしまった。



 幸運なことに、予想は外れた。
 冷静に考えれば当然だ。弘がそんなことをするはずがない。連絡を入れて都合のいい日を確認、承諾をもらい(おもむ)く、それが道理。
 でも半分は当たった。
「久我先輩」
「……なに?」
 逃げたい思いでいる。
 腕時計で時刻を確認しつつ返事をした。マンションはバスと徒歩の距離だ。電車ほど離れていないのが悔やまれてならない。
 ものすごく逃げたかった。
 朝早い八代は混雑するバスにあまり縁がない。帰りは帰りで、どれだけ作業が遅くなろうが好きにできるから、コンビニなんかで適当に食料を調達しつつぶらぶら帰る。ラッシュは過ぎている時間だから、優雅なものだった。
 この時間に帰るとなれば、バスはたぶん混んでいる。避けたい。けれど、そういうわけにもいかなかった。
 八代が遅く帰るのは珍しいことではないが、弘が八代より遅くなることはない。遅くなる前に帰しているのだ。つまり、彼女には、ひたすら待つという手段がある。八代は逃げられない。
 弘に不穏な動きがあった。
 彼女は徒歩通学、電車もバスも使わない。だからとっととバスに乗って帰ってしまえばひとまずは距離を置ける。明日の朝までという非常にその場(しの)ぎの時間ではあるけれども、ある程度の心の準備はできる。はずだ。たぶん。きっと。
 そうあってほしい。
 後片づけをして、帰ろうと(かばん)を持った途端に呼び止められた。温室の鍵の管理を弘に任せていないことを心底後悔する。八代が持っているから、必然的に彼女を待つかたちになってしまう。
「待ってください久我先輩、急ぎますから!」
 わたわた荷物をまとめる弘を待って、温室に閉じ込めて逃げたい気持ちと格闘しつつ観音開きの扉の右側を閉じる。左側の把手に手をかけたところで、慌てながら弘が出てきた。
「久我先輩、待ってください」
「やだ」
 back  |  next



 index