back  |  next   
 一生懸命追い(すが)ってくる弘を無視……したいと思いながら鍵を職員室に返し、鍵の使用記録にチェックを入れて職員室を出た。
 弘の姿がない。
 ふり向く。
 やっぱりいない。
 さっきまではいた。後ろにいて、ついてきていた。
 職員室入口左右、どちらにも立っていない。廊下も無人。
 ――まさか。
 早足で下駄箱に向かって歩いていくと、既にきちんと靴を履いて鞄を持ち、いつでも帰れますといった格好の弘が待ち構えていた。
「一緒に帰ります」
 断言、そして断定。
 おまけに笑顔がない。八代をきっと(にら)み据えて、
 ――絶対に逃がしませんよ。
 と顔に書いてある。
 ――誰が今の柘植サンと帰るか!
 どうしてこういうときに限って誰も来ないのだろう。鷹羽でも綾野でも次子でも伊織でも、なんとかいう入部希望の一年生でもいいから来てくれればいいのに、誰も来ない。
「魅力的なお誘いだけど、俺はバスで帰るんだよ。知ってるでしょ」
「はい。存じていますが問題はありません、わたしもバスで帰ります」
「交通費出さないよ」
「持ち合わせがありますので大丈夫です」
 ――埒が明かねえなあ……。
 次子の台詞が脳裏に響く。
 弘が譲ってくれない。いつもぽよっとしているのに、きりりと口を引き結んで逃がしてくれる気配ゼロ。
「俺は家に帰る」
「わたしも自宅に戻ります。一緒に帰りましょう」
「少なくとも現時点では俺と柘植サンの住む場所は違うよね」
「はい。一旦先輩のご自宅へ向かい、ある程度のお荷物をまとめていただいた上で、わたしの家にご一緒していただきます」
 また断定された。しかもさらにはっきり。
「俺の部屋に引きずり込まれる可能性が高いことは念頭にある? 言っとくけどひとり暮らしだよ」
「それならそれでかまいません。自宅へ電話し、両親に来てもらいます」
 いつもの、甘ったるい砂糖菓子みたいな柘植サンはどこへいった。
「その、荷物をまとめて家に来いっていうのはなに。理解できない」
「先輩のご実家の方々のご都合をお尋ねし、お日取りを決定するのが困難だとわかりました。失礼ですが先輩ご自身もあまり気が進まないといったご様子でしたので、先にわたしの両親を紹介させていただこうと思います」
「荷物をまとめる必要性は?」
「備えがあれば憂いがなくてすみます」
「理解に苦しむね」
「一緒に帰りましょう」
 埒が明かない。
「やだ」
 それ以外に何をどう言えと。
 今の弘に何をどう言っても着地点は「一緒に帰りましょう」であるのは自明の理。理詰めで負かすのは十八番(おはこ)のはずなのに、何故だ、勝てる気がしない。
 残された道はいやだいやだと連発しながらバス停に行き、弘をふり切るしかない。幸い彼女はトロい。身長差もあるからコンパスだって大幅に違う。走るまでいかなくても、きりきり早足で歩くだけで彼女は八代についてはこられないだろう。
「悪いけどやだ。帰る。ひとりで」
 ひとりで、を心持ち強調して言った。
「いやです!」
 すれ違おうとした瞬間、左腕が重くなった。
 弘がしっかりしがみついていた。それはもう思いきり。鞄も落として、両腕でぎゅう、と八代の腕を抱きしめている。
 結構な大きさの声だった。
 いつもは穏やかに、(ひか)えめな声で話すのに。
 八代の腕をしっかと抱きしめたまま見据えてくる。
「いやです。一緒に帰るって言ってくださるまで放しません。何時間でもずっとこのままでいます」
 弘ならやりかねない。
 鳶色の双眸(そうぼう)が、痛いほどまっすぐに見つめてくる。
「ああ……もう」
 溜息が()れた。
「絶対放しません……」
 弘の眉尻がふにゃりと下がる。迷惑をかけている困らせていると恐縮している。それでも腕を放そうとしない。
「……一緒に帰るよ」
 二度目の溜息と同時に言うと、弘はほっと息をついて身体を離した。取り落とされていた弘の鞄を拾い上げる。
「あ、ありがとうございます」
「なんでこだわったの?」
 ずれてしまっている弘の眼鏡の位置を直してやりながら尋ねると、鞄を抱いた弘が少し肩を落とした。
「前に進みたかったからです」
「……落ち込んでも、目は逸らさないんだね」
 弘は不思議そうな顔をした。八代の言葉の意味を捉えきれなかったらしく、疑問の眼差しを向けてくる。
「帰ろ。今から行けばほとんど待たずにバス来るから」
「あ、はい」
 ふいと歩きだすと、弘がついてくるのが足音でわかった。――いつもと足音が違う。急いでいる。
 ――速いのか。
 忘れていた。コンパスが違うのだ。
 少し、速度を緩めた。隣に並んできた弘が、安心したみたいに無防備に微笑む。嬉しそうに。
「ありがとうございます」
「……ん」
 どう答えたらいいのか迷って、結局中途半端に(うなず)いた。
 ――在るものはどうしたって在るんだ。
 鷹羽がそう言っていた。
 back  |  next



 index


>