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 逃げても、見えないふりをしても、どうしても在るのだと。
 ――逃げても、駄目なのだと。



 荷物をまとめていただきますと言ったくせに、弘はマンションのエントランスで待とうとした。
 さすが柘植弘。
 ひとりで行かせたら立て(こも)るからね。と(おど)したらものすごくショックを受けた顔をして、それから項垂(うなだ)れてついてきた。
 所詮は柘植弘。
 でもやっぱり弘は弘だった。八代の部屋の玄関にすら入ってこない。扉の外で待っている。
 荷物をまとめろと言われても、一体何をどれだけまとめろというのか。
 教科書類は問題ない。八代はすべて学校に置いている。持って帰るのは、机の中を空にしなければならないテスト期間と、長期休みの間だけだ。
 まとめる。
 ――まとめる?
 弘は備えあれば憂いなしと言ったが、この場合の憂いは一体何を指しているのだろう。具体的になんのことなのか。
「柘植サン」
「ひゃあっ、あっ、あ? 久我先輩。なんでしょう? びっくりしました」
 そんなに驚かれたらこっちが驚く。
「憂いって何?」
 重い鉄扉(てっぴ)を開けて顔を覗かせて問う。知らず眉を(ひそ)めてしまう。
 弘は両腕を身体に引きつけたびっくりポーズのまま答えた。
「心配事です」
「具体的には?」
「現在母が帰国しています。お泊まりいただくことになるかもしれません」
「は、――は? なんで」
「説明に少々戸惑います。三日分――いえ、二日分で結構ですので、ご準備をお願いします。既に時間がかなり遅くなっていますので、可能性が高いのです」
 意味もわからないしわけもわからない。
 母が帰国で泊まりの可能性で二日分。
「わかった」
 わかっていない。
 再び部屋に戻り、どうしたものかと迷う。修学旅行もサボったこの身にそんなハードルを立てられても越え難い。
 制服はいい。着ていくしかないし、ほかにどうすることもできない。服。――服。
 可能性ではあるけれど、泊まり。
 当然のことなのに、すべてがイレギュラーで思い至らなかった。
 泊まるとはつまり、少なくとも一夜を明かすこと。
 眠るのか。
 他人の中で。
 ――無理だ。
 それは無理だ、できない。
 弘に伝えようと扉を開けたら、今まさにノックしようとしている弘と目が合った。
 いつもはぬくもったシェアバターの肌が、ふくふくしてほんのり染まっている頬が、心なしか色を失っている。
「久我先輩」
 あるのはいやな予感だけだ。
「父が迎えに来てしまいました。――母に命じられて」
 どういう家庭なのか。
 逃げ場がないことだけは確かだった。そしてたぶん――
 ――少なくとも一泊は、決定された。
 何がなんだかわからない。クローゼットを開けてみたらそこそこに大きいボストンバッグがあった。まるで記憶にない。自分の範囲内にあるものだが、本当に自分のものなのかどうか疑わしかった。入り浸った人間などいないから、自分のものなのだろう。何故こんなものがあり、置かれているのかすらわからない。必要がないのに。
 が、たった今必要になった。
 適当に適当なものを突っ込む。八代の普段着など白と黒しかない。しかも全部シャツ。(えり)のない服を着られないのだ。洗面所に行って、コンタクトレンズの入ったケースを鷲掴(わしづか)みにした。
 扉を開けて出たときには、もうやぶれかぶれな気持ちだった。どうにもならないし、できない。
「なんで連絡いってるの?」
「できるだけ逃げ場をなくそうと思い、切り札として連絡を入れておきました。久我先輩が――恐らく職員室で鍵の使用記録にチェックを入れていらしたくらいのお時間だったのではないかと思われます」
 先輩がどうしてもいやだとおっしゃったら、もう連絡を入れましたと言うつもりでした。
 と言われて、肝が冷えた。
 用意周到。これで性格が(ねじ)れていたら八代と変わらない。
 エレベーターがなんだかもどかしく思えて、階段をがんがん下りながら会話する。
 弘はへにゃりと情けない笑みを見せた。
「電話に出たのが父でしたので大丈夫だと思ったのですが、申し訳ありません。強硬手段に出られてしまって」
「そんな激しい方なの?」
「どうでしょう。わたしには当たり前ですのでなんとも申し上げられません」
 不安になってきた。
 というよりも、最初から不安しかないのだ。しかも、今の話を聞いて若干恐怖がまじってきている。
 指定された目印の場所は、マンションからほど近いバス停だった。
「あ、着いていますね。お待たせしてはいけないと思っていましたので、安心しました」
 迷惑にならない絶妙な距離に白い軽自動車が停まっていた。(かたわ)らに立っていた男性が、急ぎ足で歩いてきた八代と弘に気がついたらしく、ひょいと片手をあげる。
「お父さん」
 安心したような、呆れたような、情けないような。
 でもやっぱり安心した声で弘に呼ばれたそのひとは、気安い足取りで寄ってきた。
「やあー。ごめんねえ、みーさんヒロの策略あっさり見破っちゃったよ。逃げ場なくすなら徹底的に(つぶ)さなきゃだめでしょう(ひろし)さん行ってきてって言われて」
「逆らえなかったの?」
「逆らわなかったの」
 そこまで言って、八代に向き直った。
 やわらかそうな、少し癖のある濃い茶の髪。鳶色の双眸。
 疑いようもない弘の父親だ。
「久我先輩、父の博です」
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