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 八代が畏怖(いふ)する透徹(とうてつ)の瞳。
「八代君は? 受けたとは聞いたし、疑うわけではないの。本当にいいのかと思って」
 疑う――とはいわないのだろうか。どう違うのだろう。
「私は八代君を何もできない子どもだとは思っていません。弘のこともね。未成年であるだけよ。私は子どもが自分で自分の名前を名乗れるようになったら一人前と見る。階段はあるから合わせることはするけど、見縊(みくび)ることはしない」
 でも、と雅は続けた。
「大変な決心でしょう」
 静かな、深い声だった。晴れた日の海のような――海面はきらめいて美しく穏やかだけれど、少し(もぐ)るだけで何も見えなくなる。
 だからといって冷たいわけではない。
 ――拒絶ではない。
 雅の隣に座っている博が、緊張しないで、と微笑して言った。
「最初っから緊張しないでって言っても難しいだろうとは思うけどね。でも、そんなに――」
 ふ、と困ったように笑う。
「怖がらないで。ここにいる人間は誰もきみを傷つけようなんて思ってないから」
「怖がっているように見えますか」
「見える。頭の中真っ白で何も考えられないって顔してる」
 図星だった。
 そのとおりだ。
 頭の中は真っ白で、何も考えられない。真っ黒なのかもしれない。恐怖だけがはっきりとわかる。
 指摘されても、怒りも羞恥も湧いてこなかった。嫌悪も。
「弘さんに手を上げました」
「これまた突然の告白ね。理不尽に?」
「はい」
 理不尽に打った。
 恐怖に駆られ、手を上げて、引きずり倒した。
 微笑をそのままに、雅は八代を突き放した。
「安心していいわ、八代君。暴力はすべて理不尽よ」
 心臓が止まるかと思った。
 言われた言葉の強さと、言った雅の表情の毅然(きぜん)としたやさしさに息が止まった。
「あああれねえ。八代君だったか」
 博が笑った。
「ボロっボロで帰ってきたよねひーちゃん。ブラウスの釦の予備全部使いきったもんね」
「うん。でももう取れないから大丈夫。お洗濯とアイロンのときにちゃんと確認してるから」
 落雁を口に放り込みながら笑う雅に弘がのんびり頷いて、八代は凍りつく。
「ん? ――ああ、ごめんね放っぽり出して。八代君の話してるのに。弘はね、ほっぺたひっどく腫らして制服ぼろぼろにして帰ってきたの。たまたまいい感じに帰国した日だったからねえ、久しぶりに見る娘がそんなんなんだからびっくりしたわ」
「僕がやったことです」
「うんそのようね。弘は言わなかったけどね」
「……言わなかった?」
 思わず隣の弘を見る。渦中(かちゅう)のひとは美味しそうに緑茶を飲んでいた。
「笑っちゃうのよ、仕事から帰ってきた博さんにどうしたのって訊かれて、ひーちゃんなんて答えたと思う?」
「転んだって答えました」
 弘がふふふと笑って言った。雅は思い出したらしく、くちもとをてのひらで覆って笑いを(こら)えている。
「考えるまでもなく嘘でしょう。ああ絶対に言わないなと思ったからね、追及はしなかったよ」
 博の声が、瞳がやさしかったから、言葉を失ってしまう。
「――責めないんですか」
「ん?」
「そんな――そんなことをする人間と結婚すると言っている弘さんを止めたり――今からでも、僕を締め出そうとは思わないんですか」
 大切な娘さんなんでしょう。
 泣きたい気持ちで言ったら、誠実なんだね、と声がした。博の声だったのか、雅の声だったのかわからない。男性と女性だし、声の質感だってまったく違うのに、どちらの声だったのか判別できなかった。
 誠実なわけがない。
 対極に位置している。
「大切な娘だからだよ。八代君、顔を上げて。この家では大切な話をするとき、相手から目を逸らしてはいけないことになってる。この家の中にいる以上、きみにもそうしてもらう」
 ――弘は。
 この家で育ったのだ。間違いなく。このふたりに愛され、育てられてきたのだ。一片の疑いを差し挟む余地もない。
 震えそうになって、右手を握りしめて、左手で押さえつけた。心臓がせり上がってくるようだ。(のど)が突かれたように痛む。
 それでもなんとか顔を上げたら、博も雅も笑みを含んで待ってくれていた。
 ()れている様子も、苛立っている空気もない。
「弘が絶対に言わなかったのよ。親である私たちに。私も博さんもね、弘を愛してるし、この子から愛されてる自信があるの。それでも弘は言わなかった。どうしてだかわかる?」
 ――愛してはいけないひともいないし、愛されてはいけないひともいない。
 確信しているのか。お互いに。何故そんなことができるのだろう。どんなに親しく近しくあっても、心の中など見えはしないのに。
「いいえ」
 弘はさっきから何も言わない。おとなしく話を聞いているだけだ。彼女の話をしているのに、口を挟んでこない。
 雅は答えを告げないままに、言葉を続けた。
「弘を見縊らないで。この子は泣き寝入りする子ではないの」
 ――泣き寝入り。
 何もせずに。
 何もせずに過ごすだけ。
 善後策を講じることなく被害者意識だけを増大させて、自分で自分の中を絶望で満たした。
 零れない涙が狂気になった。
「あのときにね、もし弘が泣きながら八代君に殴られたって帰ってきてたら、俺も雅もこんなふうにはきみと話してないよ。さっき雅が言ったように、暴力はすべて理不尽だ。女の子の服が引き千切(ちぎ)られてたら、何も言われなくてもわかる」
 ――目を、逸らしそうになる。
 どうしてこんなにもまっすぐに見つめてくるのだろう。縫い止められて動けない。射抜かれているから痛い。
 でも、逸らすなと言うのだ。
 ――わたしを見てください。
 弘にも言われた。惹かれるようにして目を合わせた。
 そして、(おそ)れた。
「転んだなんてバレバレの嘘ついてね。――そのひとのこと好きなんだなあって思ったわ」
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