back  |  next   
「弘に手を上げたことを自分から告白したから」
 それは――
 ――だって、雅には嘘をつけないと思ったからだ。通用しないと思った。すべて見透かされるとほとんど確信に近い感情を抱いたから、言わずにいられなかった。
「気に入ったっていう表現の方が近いかもしれないけどね」
 博はやっぱり困ったような笑い方をする。
「弘はまあ、ちょっと抜けてるところはあると思う。俺の娘でもあるけど雅の娘でもあるから。意志が強いといえば聞こえはいいけど、頑固だともいえるし、たまに癇癪(かんしゃく)起こしたりもするよ。決めたら一直線なところはまんま雅」
「癇癪を起こすんですか」
「起こす。我儘を通そうっていうんじゃないけど、泣き叫ぶことはある」
 想像できない。八代の中では、弘はいつもゆったりと微笑んで控えめな女の子だ。
 意志が強いのは知っている。何度も思い知らされてきた。決めたら一直線というところも納得できる。結婚まで申し込んできた。
「強引にここまで連れてこられて、強引に話をさせられたね」
「思い遣ってくれたのだと思います」
 ほうじ茶の揺れる湯呑を両手に包んではいるものの、口に運ぶまではいかない。ほかの様々が去来し、渦巻き、次の行動を選ぶことができない。
 ――前に進みたかったからです。
 強引に過ぎる作戦は、これ以上ない働きだった。ほかに手段はないようにさえ思う。八代は養父と会いたくないし、自己とそして過去の自分に自信がなく、(やま)しいものしか持っていないから、弘の両親に会うのも怖かった。
 無理矢理引きずられなければ、前進はいつまで経っても来なかった。
 当然だ。
 前進が向こうからやってくるはずがない。前進する主体は自分自身なのだ。能動なのだ。受動に甘んじて得られるものではない。
 博はあたたかい仕草で息をついた。
「弘とのことがどうなるかはまだわからないけど、きみはきっとしあわせになれるよ。八代君の明日は、いつも今日より素晴らしいものになる」
 湯呑を傾け、どうやら最後のひとくちを飲み終えたらしい博が、今度は困ったふうにではなく笑った。
 弘の笑い方と似ている。
 愛情を疑わず、やさしさを惜しまないあの笑みを、笑い方を、弘は父親から教わったのだ。
「自分に向けられた思い遣りに気づけるんだから、きみはきっと誰かを救える」
 同じ言葉を、言わないでほしい。
 八代は弘のすべてに受け入れられ、安堵し、――救われたから。
 疑わないということ、信じるという行為を見せつけられ、教えられたから。彼女にそれらを教え育てた人間に同じ台詞を言われたら、無防備になるしかなくなる。
 それは、(から)に不快ではないひびが入り、小さな欠片(かけら)がぱらぱらと()がれ落ちていくのに似ていた。
 こんなの、あまりにも唐突すぎる。
 八代はずっと閉じこもり続けてきたのだ。今さら殻が壊れてしまうなんて、恐ろしい。
「今日一泊は、申し訳ないけど諦めてもらうしかない。弘に荷物をまとめてって言われたと思うけど、何日分まとめてきたのか教えてもらえる? 予防線を張らないと」
 予防線ってなんだろう。
「二日分です」
「弘にそう言われた?」
「はい。三日分と言われましたが、二日分と言い直されたので、そのように」
 そのまま正直に答えると、あははと博が笑った。いきなり明るい笑い声を上げられて、わけがわからない。
「いやいや。うん。ごめん、さすが娘だなあと思って。二日分ね。それはよかった」
 笑いを(おさ)えきれていない。手をひらひらさせて、肩を震わせて笑っている。
 手荷物二日分の何がそんなにおもしろいのだろうか。予防線になるらしいが、一泊が決定された今、これ以上何を予防するのか予測がつかない。
「うーいお風呂いただきましたよー」
「いただきましたよー」
 雅が言いながらリビングに戻ってきて、弘はそのあとから母の口調を真似て楽しそうに戻ってきた。
 雅は普ッ通のパジャマ姿だった。だらしないわけではないのだけれど、何せもとの格好がきっちりした和装だから、別人に見える。顔はまったく変わっていない。普段から薄化粧なのかすっぴんなのか、前者だとは思うが、もしかしてものすごく卓越した技術を持っているのだろうか。
 つるりとした肌はきれいで、()きたての卵のような肌とはこういうことをいうのかと愚にもつかないことを考える。
 それにしてもこのひと、本当にざっくばらんだ。博が猫をかぶっているわけではないと言っていた。よくわかる。美しい立ち居振る舞いは明らかに付け焼き刃のものではないし、(りん)としたやわらかい物腰も落ち着いている。それだけで十割ならわかりやすいのに、良くも悪くも飾り気がなく、けろっと明快だ。
 雅が、ああ水水、と言いながらキッチンへ入っていく。
「先輩、今さらながらお湯加減はいかがでしたか」
 風呂から上がったときにも訊かれた。あとに入った弘に尋ねられても返答に(きゅう)する。
「ちょうどいい湯加減でした」
 同じ返答をした。
 そうですか、と嬉しそうに笑う弘は(あい)染めの甚平(じんべい)だった。
 が、そんなことに構ってはいられない。
 最大の難関がある。
 ――どう説明したらいいだろう。
「八代君、せっかくだからホームステイしていく?」
 キッチンで、すでにジョッキレベルのでっかいグラスいっぱいの水を飲んでいた雅が、口を離して訊いてきた。
 危うく妙な声が漏れるところだった。
 なんとか声は上げなかったものの、表情には出ていたのだろう。雅がにまにましている。
「三日以上滞在する人間はお客とは認めないから働いてもらうけど、ええと、なんていうの? あ、花嫁修業か。違う婿(むこ)か。いや入り婿希望ってことじゃないのよ、それは違ってね、ひーちゃんと一緒生活ちょっと体験してみる? 親同居バージョン。疑似二世帯」
「先輩どうなさいますか?」
 ――拒否してよ!
 どうなさいますかと訊いてはいるが、弘の顔はきらきらしている。わたしはやってみたいと思いますとありありと顔に書いてある。
 ズレている。
 抜けている。
 弘だけではない、雅も。
 ――優性遺伝なのだろうか。
 助けを求めて博を見ると、ほらね、という顔をしていた。
 ほらね、ではなく助けてほしい。
「いえ。ご迷惑をおかけしてしまいますし、遠慮させていただきます」
「あらどうして?」
 辞退したのに食い下がられた。
「あの大きいボストンバッグは覚悟の(あかし)じゃなかったの?」
 そんな台詞は一言も言っていない。
 雅はけろりと忘れているように言っているが、そもそもあれは弘が八代の逃走経路を(はば)むためのもので、そして決定を打ったのはほかでもない雅だ。
 一泊は確かに覚悟した、だがホームステイなど予定にない。
 back  |  next



 index