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 博と雅に向かい、制止を求めた。今度は黙らず躊躇(ちゅうちょ)もなく、はっきりと言った。
 だって駄目だろう。
 未婚の男女はたとえ婚約者であっても(とこ)をともにすべからず――などと言うつもりはない。現在そんな清らかな教えを守っているのはごく一部だろう。どう考えても少数派だ。それに八代は既に複数人と関係を持った身だ。顔も名前も覚えちゃいない、完全に行きずりの関係だが持ったことに変わりはない。しかも男も女も両方いる。抱かれたことは一度もないが、そのあたりの事情はどうだっていい。短からぬ付き合いで現在も身近にいる鷹羽は特例だ。
 その鷹羽についても今はなんの役にも立たない。
「誰かと一緒に休むのはもっと苦手でいらっしゃいますか?」
 ええ苦手でいらっしゃいますとも!
 誰かとともに寝たことはただの一度もない。八代の寝顔を見た人間はひとりだっていないのだ。温室でだらりと目を閉じていることはあるけれど、それを寝ていると見られることがあるのも知っているけれど、意識はしっかり起きている。
 鷹羽だって八代の寝顔を知らない。
 八代はとっととシャワーを浴びてダイニングで水を飲んでいる。その間に、鷹羽が何も言わずに、苛立ち、(あせ)り、落ち込んで打ちひしがれながら部屋を出ていくのを、鼓膜だけがただの反応として震え捉えていた。八代はずっと無関心で、そんなときの鷹羽がどんな表情だったのかを知らない。背中が気配を感じ取っていただけだ。
 誰かと寝たことなんてない。
 ――無理だ。
 これは絶対止めてくれるだろう。いくらなんでも。
 袖を摘んだままの弘の覗き込むような視線をふり払って博と雅を見る。
「止めてください」
 繰り返してみた。
 無駄だろう。
 黙って事の成り行きを見守っている時点で、止める気があまりない。感じられない。でも言ってみた。
「ああ。いいねそれ」
 最初に口を開いたのが博だったので、目の前が真っ暗になった。
 もっともまともな発言をしてくれそうな博が。
 雅に期待できるわけがあろうはずもない。
「うんそうしよう八代君」
 そんな楽しそうな笑顔で(すす)めないでほしい。
「両親の同意を得ました。先輩、ご一緒しましょう」
 肝心の八代が同意していない。
「大丈夫よ、今の反応を見るからにきみが暴挙に出るとは思えない。顔面蒼白だったもの」
 ――なにこの家族。
 特に母親!



 胃に穴が開く。
 絶対に開く。
 博と雅におやすみなさい、と言った弘は嬉しそうだった。柘植家であるので当然逃げ場はないし、立て籠れる場所もない。弘にしっかり腕を掴まれ――というか、ほぼ抱きしめられていて、絶対に逃がしませんよ再来。
 そのままずるずる引きずられるようにして階段を上がった。
 ああ、逃げたい。
 眠れるのかどうかも怪しいのに。むしろ、眠れない可能性の方が高い。
 こんな知らない場所で、他人に囲まれて。これまでの自分からは考えられない言葉を次々口にして告白し、会話した。
 胸が軽くならなかったわけではない。
 恐怖や懸念が少なからず――少なからずではない。かなり、だ。かなり払拭(ふっしょく)されたのは事実だ。
 博はあたたかく、雅は厳しくありながら受け入れてくれた。
 ――暴力はすべて理不尽。
 八代は理不尽を受けてきた。だからといってひとにそうしてもいい理由にはならない。かつて弘が言ったことは真実だ。それでは何も解決しない。
 けれど、八代が弘を打ったのも事実だった。
 博や雅が弘を愛し、大切にしているのはわかる。わかりやすすぎるほどに明らかだ。それなのに彼らは、八代の手を許した。
 詐力(さりょく)(まみ)れたこの手を。
 弘が、咲かせた花の数の方が多いからと言って、だから誰かの救いになれると誇らしく笑ってくれたように。
「柘植サン」
「はい。なんですか、久我先輩?」
 今回はしっかり意識している。八代のことしか考えていない。
 八代の腕をがっちり掴み、逃がしませんという強い決意のもと見上げてくる。
「大丈夫だよ。もう諦めてるから、そんなにしなくても逃げないよ」
「そう、ですか?」
「逃げない」
 逃げようがない、が正しい。
 弘は安堵の息をついて、そのわりには八代の袖を握ったままやっと表情を緩めた。
 彼女らしく静かに開けた扉の向こうの弘の部屋は非常に――
 ――非常に弘らしかった。
 大きな書棚にしか目がいかない。もちろん机もある。当然ベッドもある。だが如何(いかん)せん書棚の存在感がありすぎて、ほかのすべてが(かす)んでいる。
 辞書、辞典、図鑑が多い。特に辞書、辞典が。
 国語、英和、和英は珍しくもない。あって当然のものだ。古語辞典もいい。漢和辞典もおかしくない。
 英英、仏和、和仏、仏仏、伊英、英伊、ドイツ語ラテン語ヘブライ語。ギリシャ語、中国語――このあたりまではいいだろう。ひっかかりがありはするものの、いいだろう。
 ヒエログリフはどこで使うのか。
 小説もあり、ジャンルは多岐にわたっている。邦訳とともに原典がある。三国志(さんごくし)演義(えんぎ)など、大きな書棚一段をすべて占拠している。指輪物語は、その派生も、トールキン自身による解説まで揃えてある。当然のように、こちらも邦訳と原典。エンデの作品もあって、ファンタジーが好きなのだろうかと思った隣にあるのが遠藤周作(しゅうさく)全集や(もり)鴎外(おうがい)全集。医学書があって六法全書がある。哲学書も豊富。
 でもその真下に『河童の歴史』とか『今日からあなたも魔法使い』とかあるからルールがわからない。一体何が書いてあるのだろうか。興味を持つというより胡散臭くて遠ざけたい。『招き猫のすべて』ってなんなのだろう。すべてもへったくれもないように思う。
『魔女狩り』とか『拷問大全』、『毒薬一覧』。怖い。
 でもその下に『泣いた赤おに』とか『ごんぎつね』、『赤ずきん』とかがある。
 理解に苦しむ。
 ルール――恐らく彼女の中ではこれらはきちんと区分されているのだろう。傍から見ると法則性を見出すのは困難だが、たぶんきれいに分けられている。少なくとも書籍の並びは丁寧だ。
 ジャンルは同一のものをまとめているのだろうと思う。背の高さは右肩下がりの順に並べてあった。辞書あたりはサイズが同じだから、隣接する言語を抱き合わせてあり、基本的には五十音順だ。机近くに和英や英和、国語、古語がきているのを見ると、たぶん使用頻度の高いものほど手が届く近い範囲に収められている。
 最下段の(すみ)に、大切そうにアルバムがある。
 天井から床までびっちり本棚。ほぼ壁一面を埋めている。デッドスペースになりそうな隙間に細長い飾り棚があって、かわいらしい写真立てが並んでいた。
 ――あんまり変わってない。
 幼いか、ちょっと成長しているかの差があるだけだ。サイズが縦に伸びたんだねといった程度の差。シェアバターのようなあたたかみのある白い肌をしていて、頬や指先やなんかがほんのりと染まっていて、やわらかそうな少し癖のある濃い茶の髪。大きな鳶色の双眸。
 父親似だと思ったが、雅にも似ている。写真立ての中に収まっている弘と雅は、上瞼のラインがよく似ていた。
 意志の強い、頑固にも見える瞳の強さも。
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