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「小さい頃から眼鏡かけてたんだね」
 写真を見て八代が言うと、はい、と返事をした弘が照れたように笑う。
「小学校の一年生からずっとです」
「本の読み過ぎでしょ」
「はい。よくおわかりになりましたね」
 わからない方がどうかしている。
 普通、という言葉はあまり好まない。曖昧で無責任だ。適当に使うが、心底で好きか嫌いかと問われれば嫌いだ。
 それでも、弘の部屋のあり様は、同年代の女の子と比較した場合、特異な例になるのではないかくらいのことはわかる。
 壁に不思議な絵があった。
 額縁に収められ、飾られている。
 抽象画だろう。ひと目見て何かと断定できる要素がまったくない。
 虹色――というのだろうか。
 淡い色合いで、すべての色を流したような。
 水彩絵の具だろう。
 なんの変哲もない、学校から支給されるもの。
 なのに、とてもきらめいて見える。
「久我先輩、こちらへどうぞ」
「え、……ああ」
 呼ばれて行ってベッドの前に立って、――もう疲れすぎて眉を顰める気力もない。
 狭かった。
 シングルのベッドだから狭い。小さい。本当にここにふたりで寝るのだろうか。
 否否。
 寝られるのだろうか。
 はみ出しそうな気がする。転げ落ちる気がしてならない。
 さっきからなんだか声がしないおとなしいと思っていたら、どうやらベッドを整えていたらしかった。
 一緒に休むという表現だったから、ベッドがあって、その横、フローリングに布団を敷いて寝るのだろうくらいにしか思っていなかった。客用の布団は使用可能な状態に整っているらしいのだから。
 そうあってほしかった。
 のに。
 シングルの、狭い、小さい、はみ出しそうで転げ落ちそうな気がしてならないベッドに枕がふたつ並んでいる。布団を持って上がらなかったから二階にあるのかと思ったが、希望と祈りはあっさりと木っ端微塵に砕け散った。
 一緒に休む。こんな直球の言葉どおりなど信じられない。自己防衛機能標準搭載が弘の仕様ではなかったのか。マンションの玄関にすら入ろうとしなかったのに、何故同じベッドで寝ようとするのか。しかも弘から誘ってきた。八代は拒否する間もなかったのだ。誘ったのが八代で拒否の間もなく連れ込まれたのが弘ならなんの不自然もないが、これはおかしい。
 改めてベッドを見る。もう色柄など認識できない。容量を超えている。
 ――無理。
 八代の精神的な問題ではなく、物理的に不可能な気がする。弘は八代の身長を何センチだと思っているのだろうか。いつも至近距離で見上げているのだから、細かい数字を弾き出すのは無理でも高身長であることくらいは認識していてもいいはずなのに。
「無理じゃない?」
「何がでしょう」
「身体が収まるように見えない」
 弘はころころと笑った。
「大丈夫です。転落防止策として先輩は壁側に寝ていただこうと思います。転げ落ちるのはわたしですから問題ありません」
「大問題だと思うよ」
 お気遣いありがとうございます、と言ってまたころころころころ笑う。
「中学校に上がるまではよく転げ落ちていましたから慣れています」
 不要な慣れだ。
「寝相悪いの?」
「はい。かつては大変なものでした」
 かつては。
 少なくとも今は違う、もしくはましなのか。
 寝相の良し悪しの自己申告などあてにできない。
「一緒に寝るのは無理だと思うよ」
「先輩」
「なに?」
(わる)足掻(あが)きはやめましょう」
 下から覗き込まれ朗らかな笑顔で脅迫された。
 ――俺の安息を返してくれ。
 やぶれかぶれの破れ目などなど既にない。とうに裂けてしまっている。ならばこれ以上何を足掻くことがあろうか。
 さくっと明かりを落とされた。
 とにかく今日の弘は八代を逃がしてくれない。
 弘はベッドサイドのちんまりした明かりを代わりに点けた。順番が逆ではないのか。もう何が標準で何がそうでないのか、八代の胸中は混迷を極めている。
 さあさあと押されるようにして狭いベッドに上がった。せめてダブルが欲しい。ひとりでクイーンサイズを使っている贅沢(ぜいたく)(たた)られている。
「……柘植サンって視力低かったよね」
「はい」
 失礼しますね、と丁寧に言って、八代の隣によじよじと入ってきた。
「寝るときって眼鏡外す?」
 愚を極めた質問に、弘はおっとりと笑った。
「はい。かけたまま眠ってはレンズに傷が入ったりつるが曲がったり折れたりするかもしれませんので、きちんと外して()いてから眠ります」
 言いながら眼鏡を外し、言葉どおり丁寧にレンズを拭きはじめた。今日の眼鏡拭きはスイカ模様らしい。
 長く使おうと思ったら、数を揃えられるものであればいくらか揃え、それを使い回せば長持ちする、揃えるのであればかわいいものがいい――というのが眼鏡拭きに対する弘の思いの(たけ)で、事実彼女は何枚か持っている。
 何枚か、なのか、何枚も、なのかは知らないが、とにかく複数枚持っている。色柄様々で、そんなにバリエーション豊富なのかと変に感心したものだ。
 何故感心が変だったのかといえば、弘が持っているものは、食べ物の柄が多いような気がするからだ。珍しいと感じたから印象に残っているだけなのかもしれないが、ドーナツ模様とかパフェ模様、枝豆だの桜餅だの柏餅だの三色団子だのいう柄は当然のものとしてそこら辺にあるものなのだろうか。昨日は(あじ)の開きと(しゃけ)の切り身が交互に並んだものだった。あれのどこがかわいいのか理解できない。弘の感性はどこへ向かっているのだろう。
 レンズを拭き終えたらしい弘は、これまた丁寧に眼鏡拭きを(たた)み、ケースの中にきちんとしまってその上に眼鏡を収め、ぱくんと(ふた)を閉じた。
 ケースはケースで、梅干しが乗っかった山盛りごはんの(どんぶり)に箸、たくあんまでが描かれている奇妙(きみょう)奇天烈(きてれつ)な柄だ。
「ねえ、柘植サン」
「はい。なんですか、久我先輩?」
 条件反射の返事をして弘がふり向く。当然のことながら、顔に眼鏡が足りない。見るのがはじめてなわけではないけれど、不思議な感じはする。
 呼びかけに応じた弘は八代の言葉を待っているらしく、じっと見つめてくるだけで何も言わない。
「俺の顔見えてる?」
「はい。(かろ)うじて」
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