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 いまいち焦点を結びきれず、見つめるとも言いにくい見つめ方だったから訊いてみれば、答えは案の定だった。
 ――ひとりからのお裾分けでは足りないくらいの視力の低さ。
「どのくらい見えてるの?」
 重ねて問うたら、弘は少し考えるようにして、こくん、と首を傾げた。
「ぼんやりと……そうですね、お顔はほとんど見えていません。記憶にしっかりあるので先輩のお顔だとわかりますが、存じ上げない方だった場合、この状態でお顔を覚えることはできません。特に今は明かりを落としていますから、大まかな陰影しかわからないのです」
 視力検査の最上段が見えない。
 ――見えてないんだ。
 顔かたちの判別もできていないのだ。
「……じゃあ、一緒に寝る」
「はい。一緒に寝ましょう」
 繰り返さないでほしい。照れる。
 弘の目にははっきり見えていないのだと思ったら安心して、半ば諦め、半ば腹を据えることにした。……半ば、の時点で据わっていないのだけれども。だから()ねた口調になってしまった。もちろん弘は一向に気にしない。
 眼鏡を外したら、そっと手が伸びてきた。なんの抵抗もなくつるを畳んでわたす。こちらに置いておいてよろしいですかと問われた。素直に頷くと、弘がベッドサイドのチェストの抽斗(ひきだし)から眼鏡拭きを取り出す。
 何やら色々並んでいた。眼鏡拭きはそこにしまわれているらしい。
 中から(こん)猩々(しょうじょう)()の子持ち(じま)を取り出し、ご丁寧にレンズまで拭いてくれて、隅を揃えて畳んだ眼鏡拭きの上に八代の眼鏡を置いた。
 八代はその隙に、左目の隠蔽の瞳をそっと外した。
 弘はにこにこしながら上掛けを整えている。
 左目を見ても、弘は厭わない。
 確信はある。
 でも、
 ――時間はいる。
 華奢な背中を見つめながら、
 ――どうすればいいのかわからない。
 少し固まっていた。
「狭くて申し訳ありませんが、お許しくださいね」
「うん? ああ、うん……」
「どうぞ横になってください」
 どうぞなんて言われても困る。
「どこに」
「こちらに。そのままお身体をお倒しになれば横になれます」
 八代がこれから寝るらしい場所をてのひらで示してくれる。だが、そんなことはわざわざしてくれなくてもわかっている。弘の部屋のシングルサイズのベッドに並んでいて、しかも八代が壁側なのだから、そこ以外にない。
「……柘植サンは寝ないの」
「寝ますよ」
「横にならないの?」
「なりますよ。先輩が横になりましたら」
 それはいやだ。自分が寝転がっている状態で、至近距離の相手に見下ろされるなど恐ろしくてできない。
「なんで俺が先?」
「現時点では先輩はお客様ですから。お客様よりも先に休むなんてできません」
 確かに今の八代は客の身分だ。それはいいけれど――これはいやだ。
「やだ」
「まだ眠たくありませんか?」
「眠れるならいつでも寝たいしいくらでも寝てたい。でも無理。ほかの人間より先に寝るのは無理」
 駄々を()ねているとしか受け取れないだろうと思うのに、説明もせずいやだ無理だとしか言わず納得できなくて当然だろうと思うのに、弘はやさしく「そうですか」と微笑した。
「では失礼させていただいて、先に横になってもよろしいですか?」
 言葉も出ずにただ頷いただけだったのだけれど、弘が不機嫌になる様子はない。枕をならしてころんと身体を倒した。ベッドが少しだけ揺れて、少しだけ傾く。何故傾くのかわからず、考えてしまった。
 ――柘植サンが横になったからか。
 考えるまでもないことなのに考えた。ひとが隣にいて動いたら多少なりと揺れるし、そちら側に布団が傾くのだ。
 ――わからないことしかない。
 柘植家は別の世界みたいだ。
 やわらかく明るい家で、みんなが笑っている。両親も、無鉄砲としか思えない弘の結婚発言を真正面から真剣に聴き、頭ごなしの否定など微塵(みじん)もない。
 ――誰も八代を弾こうとしない。
 弘の頬を打った過去があるのに、「本人がいいって言ってるんなら何かに言うのも人権侵害」などと言い放って、あっけらかんとしたものだ。雅なんかはにこにこして「ホームステイしていく?」とまで言ってきた。博が止めてくれなかったらどうなっていたかわからない。ギリギリお泊まりになったのは彼のおかげだ。
 どの部屋もあたたかい。手入れされて整えられて、大切に使われている。
 どこかから誰かが何かをしている音が聞こえてきて、それでもそれは雑音ではない。視線が合うと微笑みかけてくれて、お茶にしようかと誘われる。
 こんな空間にこんなに長時間いたことなどないし、まして自分の隣に誰かがいる状態で眠ろうとする日がこようとは夢にも思っていなかった。
「先輩」
「え、……ああ、なに?」
「おやすみしましょう」
 上掛けを両手で引き上げた弘が、ふふ、とくすぐったそうに笑う。
「なんでそんなにうれしそうなの?」
「好きなひとと一緒に寝るのはしあわせです」
 ……本当にやめてほしい。弘は恥ずかしいことをさらりと言う。
 横になってくださいと言われて、八代はなす術なくのたのたと身体を傾けた。一緒に寝るとは言ったものの、ひどい違和感がある。隣にいるのは弘だとわかっていても、鳥肌が立つような悪寒が背筋を這い上ってくる。
「それでは、おやすみなさい。また明日」
 八代が横たわるのを待っていた弘が、少し身体を起こす。何をされるかと記憶の底から恐怖が湧き上がるより先に、(ひたい)にキスされた。
「………………なに、今の」
 後退して距離を取りたい気分だった。背中はベッドだし両脇は壁と弘に挟まれているし非常に慣れない環境とシチュエーションで不安定だし、今の八代はとにかく誰にも何もしてほしくない。何故それがなされたのか、どうしてこうなったのか――理由や原因が明らかでないものは徹底的に排除したい。
 ――おやすみなさい。
 ――また明日。
 で?
 弘はやや不思議そうではあるものの、嬉しそうな様子は変わらない。
「おやすみのキスです」
「なにそれ」
 今度は知らないことを言われた。
 弘はわずかに首を傾げ、それから微笑した。
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