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――ああ。
こういうふうに笑うときの弘は、八代を赦してくれる。 「あなたが、怖い夢や寂しい夢――悪い夢から守られますようにという魔法です。オズの魔法使いの北の 「……誰が守ってくれるの」 「わたしがキスしましたから、わたしです」 「夢に干渉できるわけない」 どうして意地を張ってしまうのだろう。今さらそんなもの無意味なのに、弘がやさしいから昔の不安がどんどん出てくる。口に出せなかった恐怖が八代を臆病にさせて、泣けなかったぶんの涙が我儘になって表出する。 今の八代は、嫌いにならないで、悪い子だけど受け入れてと泣き喚くただの子どもだ。 そう訴えて泣き喚いても許されたはずの頃、八代は誰にも許されていなかった。 「ですから一緒に寝るのです。もし怖い夢を見て夜中に目が覚めても、隣にしあわせそうに眠っているひとがいたら安心できますよ。もし目が覚めたら起こしてくださいね。もう一度キスします」 ぎゅう、と胸に抱きしめられた。弘の指に髪を ぬくもった小さな手に頬を包まれて、上向かされた。そうして左の瞼にキスを受けるたびに、泣きそうになってしまう。 「抱っこしていましょうか? 怖くなくなって、眠たくなるまで」 「……ん」 このあたりになってやっと、意地を張らずに頷けるようになる。捻くれたことを言わず、してほしいことを素直に言えるようになる。 「ずっとがよろしいですか?」 「……うん」 「はい。でしたらずっと、ぎゅってしていますからね」 「よく呆れないね」 胸に抱かれたまま言う台詞ではない。でも言いたかった。否定してほしかったから。 弘があたたかい声でかすかに笑い、今度は髪にキスされる。 「はい。呆れません。わたしまで怖がらなくていいのですよ。きらいになんてなりません。かわいい――わたしの、大切なひと……」 かわいい、というのはわからなかった。完全に子ども扱いということなのだろうか。 そうかもしれない。だって子どもだ。弘に意地の悪い揶揄の気持ちがないのはわかっているけれど、それでも、かわいい、はわからなかった。彼女の感性は謎だ。 でも―― ――わたしの大切なひと。 なんてことを言ってくれるのだろう。そんなふうに言われたら、自分の過去まで信じそうになってしまう。きらいにならないなんて言われたら、本当にそうなのか試して確かめたくなってしまう。 身体があたたかい。暑いのとは異なる。 そっと触れてみた弘の背中もあたたかくて、眠いのはあたたかいからなのだろうか、あたたかいから眠いのだろうかとぼんやり思った。 眠る、という単語は、八代にとって知識でしかなかった。 安らかだったことなどない。どんなにベッドに沈んでいても、眠りたくなって眠ったことはない。服薬してもしなくても眠れないから、馬鹿馬鹿しくなって早々に薬をごみ箱に捨てた。 医師が役立たずだろうが薬が駄作だろうが自身に打開の意思がなかろうが、どれが真実でも無意味だったし、あげつらう気もなかった。どうだっていい。眠れないのが現実だ。 時間が過ぎるのを、肉体が疲労して耐えきれなくなるのを、ただひたすらに待った。 気を失う瞬間を待った。 分厚い遮光カーテンを引き、部屋をいつも暗くして、体力を早く消耗させるために室温を異常な設定にした。 時間は長かった。どれほど時計の針が進もうと、時はまったく経過しなかった。 ようやく意識が 眠ったら呪われると身体が 幼い頃、母と暮らしていたアパート。天井しか覚えていない。電気の点滅の仕方も紐のくたびれ方も鮮明に思い出せるのに、ほかの場所はまったく記憶にない。 いつも、畳に背を押しつけられ、乾いたてのひらで胸を押さえつけられて殴られていた。何度も何度も繰り返し。数を覚えると、殴られている回数を数えるようになった。これで何発目だから、あと何発で飽きてくれるはず、と必死で数えた。数えて痛みを 気絶した耳もとで、母に呪われた。 おかしなものだ。気を失っているのだから聞こえるはずはないのに、何故だかはっきりと聞こえる。それなのに身体は動いてくれず、耳を 死ねばいい、死んでしまえばいいと繰り返された。 おまえのせいですべてを失ったのだと。おまえの左目は諸悪の根源だと。 稀に眠気で眠ろうとすれば、 ――そのまま目を覚まさなければいい。 そう言われた。 養父のもとに引き取られ、今日からここがおまえの部屋だと言って案内された部屋に恐怖した。 だだっ広く、部屋の中央に何人寝られるのかわからない大きさのベッドがあるきり。本棚も机もあるのだけれど、幼い八代の目にそれらは映らないままだった。今になって、ああ、あったなと思う程度だ。本棚にどんな本が並んでいるのかは今も知らない。 広く、大きなベッドしかない部屋に閉じ込められ、死んではじめて外に出してもらえるのかと思って 首がひどく痛かったのを覚えている。だから、母と離れてからたいした日数は経っていなかったのかもしれない。 大きなベッドは冷たかった。布団ももらえなかった八代は、きっとあたたかいはずだ、せめてこれくらいはそうあってほしいと思ったのに。 全然あたたかくない。あたたかくならない。冷え冷えと背中を 泣けばよかったのか。 怖いからひとりでは眠れないと言って、誰か一緒に寝てほしいと訴えれば叶えられたのか。 そうすれば、あのベッドはあたたかくなったのだろうか。 暗い高い天井を見上げるたびに悲鳴を上げそうになり、枕に顔を押しつけて耐える日々が続いた。 母の手が振り下ろされる。 でも大丈夫だ。 これはまだてのひらだから。 てのひらだから、痛いだけ。 あと何回か我慢すれば、放り出してくれる。 それでもあの日は違ったのだ。幼い八代を擦り切れた畳に押し倒し、潰すようにして上から押さえつけた母は、これ以上ない呪いを金切り声で叫びながら八代の左目めがけて あの銀色の。 安っぽい鋏だ。 使えば切られた紙の方が あのとき、何か叫んだだろうか。悲鳴を上げただろうか。 ――助けを、求めただろうか。 どのようにふり切ったのか覚えていない。鋏は八代の左目を それからどうしたのかも記憶にない。だからこそ余計に怖かった。左肩が不快だったのを覚えている。血が流れてぬめっていたのだろう。 泣いただろうか。 鋏を奪い取って、母を刺していたらと思うと震えが止まらない。現実も虚妄も混濁し、すべてを思い出して寝つけず、疲れ果てて気を失った。 何も変わらなかったのだ。ベッドを与えられたのに。眠っていいはずだったのに。 ――あたたかいと思っていたのに。 期待を失った。 数ヵ国の言語も、華道、茶道、琴も、武道も、ほかにも色々と習ったけれど、どれも好きでやっていたわけではない。そのようにしろと言われたからそのようにしただけだ。 |
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