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 上達するのは早かった。懸命にやったからだ。放棄すれば殴られると思ったし、上達しなければ棄てられると思った。
 棄てられはしなかった。
 けれど、拾ってもらえたとも思えなかった。
 養父と顔を合わせたのは何回だったろう。話したのは何度だったろう。
 数えるのは得意なはずなのに、数えられない。
 成長する過程で、どこにでもいる無責任なおしゃべりから自身の生まれや立場を知った。
 期待の仕方を忘れた。
 ――眠れない。
 ずっと眠れないままだった。
 恐怖でしかない。
「……柘植サン」
「はい……なんですか、久我先輩……?」
 声がぼやけていた。
「眠い?」
「はい……」
「寝ていいよ」
「ありがとうございます……でも、まだ、眠りません……」
 身体を離して覗き込んだ弘は思いっきり眠そうにしていた。うとうとと瞼が落ちて、うとうとと開く。こんなになっているのに微笑んでいて、きちんと応対する。
「寝ていいよ。――俺は、寝るの下手だから」
「でしたらなおさらです。一緒に寝てるのにひとりぼっちにされてしまったら心細いと思いますから……」
 一緒にいますよ、と言った。
 ――お願い。
 ――お願い、ミス・ウィー・ウィリー・ウィンキー。どうか眠るまで(そば)にいて。
 ふくふくしたほっぺたに指先で触れてみる。いつもよりずっとぬくもっていた。試しに自分の頬にも触れてみる。
「……あったか……」
「眠くなってきましたか……?」
 もう眠っているような声で弘が訊いてくる。あたたかい指先が八代の髪をそっとかき上げてくれて、瞼を(かす)める。
 瞼は――左瞼は首の傷痕(きずあと)と同様に絶対に触れてほしくない場所なのに、弘に触れられるのは心地よい。
 瞼を閉じても呪われないし、開いていても厭われない。
「ねえ、柘植サン」
「はい……なんですか、くがせんぱい……」
 睡魔と闘っているらしい。時折ふるりと首を振る。両目をぎゅっと固く(つむ)ったかと思うと、わずかに眉を寄せて、んん、と難しそうな声を漏らす。なんとかして開こうと足掻いているようだった。その(さま)があまりにも一生懸命で間抜けだから、小さく笑ってしまう。
 ――お願い。
 おやすみを(ささや)いてくれたなら目を閉じるから、罪あるこの瞼にもキスをして眠らせて、どうか悪夢を遠ざけて。
「もう一回だけキスして。今なら眠れそう」
 本当だった。
 あたたかくて気持ちがいい。悪夢も見ない気がした。それなのに、
「いっかいだけでいいのですか……」
 などと言ってくれるものだから、たまらなくなる。
 平和な顔して。
 緊張や恐怖なんかとは無縁な顔して。
 羨ましい。
 こんなふうにうとうとしてそのまま眠ってみたい。
「柘植サンが寝るまで、何回でもして」
「ん……」
 やさしいキスが瞼に触れる。額に触れて、もう一度瞼に。
 ――おやすみなさい。また明日。
 また、明日。
 ――目を覚ましてもいいんだ。
 キスがやさしくて指先が甘くて、弘の持つすべてが悪夢の夜を金色の眠りに変えてくれる。瞼に降りる朝陽を待つことを教えてくれる。
 安らぎを許してくれる。
 ――星屑(ほしくず)よりも、ささやかに光る。
 上手く言えるだろうか。今まで口にしたことがない。自分から言いたいと思って、心からの言葉だったことがない。でももう一度言ってほしくて、弘なら言ってくれると思ったから、おずおずと口にした。
「おやすみ、柘植サン。……また明日」
「はい」
 もうほとんど眠っているくせに。
「おやすみなさい、久我先輩。またあした」
 微笑んで応えてくれる。
 眠ってしまうしかなかった。
 (あらが)う気も起こらない幸福な眠りに、やさしく抱きしめられてしまったから。

 星屑よりもささやかに光る、ミス・ゴールデン・スランバーに。

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