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その日の学窓






 ――雨が降っている。
 温室の温度を確認しなければ、と思った。
 換気に開けた窓は閉めただろうか。外に出していた鉢はなかったか。扉の施錠をしなければならない。(ひろむ)が戻ってくるまで待たないといけないが、彼女はどこまで草取りに行ったのだろう。ずぶ濡れで帰ってくるかもしれない。降水量はたいしたことはないが、弘のことだから滑って転んでいてもおかしくない。いつも予備に持ってきているタオルは小さいが、ないよりましだろう。()いてやって、それから学生服を上からひっかぶせてやればたぶん少しはあたたかい。
 ふ、と足先に何かが触れた。
 反射的に飛び起きる。
 ――飛び起きようとした。できなかった。身体が甘ったるく重い。それでも上体を起こして足もとを見ようとした。
 ――寝転がっている。
 何故。
「ごめんね、起こしちゃった」
「え。――あ」
 足先に触れたのは薄手の上掛けだった。かぶせられているわけではない。今まさに八代(やしろ)と――隣で寝こけている弘の上に覆いかぶさろうとしている。
 上掛けを持っているのは弘の母の(みやび)だった。
 若芽(わかめ)(いろ)雪輪(ゆきわ)小紋(こもん)を着ている。微笑した声は(ささや)きの淡さだった。
「もう少し休む? ベッドに行った方が疲れは取れると思うけど、いいとこ寝てたのに起きるのが億劫(おっくう)なら、せめて枕を持ってくるから」
 どうする?
 と()かれて、返答に迷った。
 弘の家だ。
 柘植(つげ)家。
 こともあろうにリビングの絨毯(じゅうたん)の上に転がって眠りこけてしまっていた。眠りが浅くなったあのときの思考は、ここに来る前八代が考えてやってきたことだ。温度を確認して、窓や鉢植えを確認した。扉の施錠をした。
 幸いにも転ばず帰ってきた弘はそれでもずいぶん濡れていて、むぎゅむぎゅ(ぬぐ)ってやった。学生服をかぶせて包んでやったら、
 ――せっかくですから一緒におやすみましょう。
 そう言われて、雨足と折り合いながら帰ってきた。
 弘の父、(ひろし)は仕事中だ。
 彼は歯科医で、しかも勤め先の歯科医院は柘植家と渡り廊下一本で繋がっている。つまり開業医。博の祖父の代かららしい。
 そんな距離だから、八代は弘の祖父と思いがけず鉢合わせしてしまった。
 博の父、弘からすれば祖父にあたる人物は非常に闊達(かったつ)だった。年配というのも(はばか)られる。老人などとはもっと言えない。年齢不詳。博とよく似ていた。この家系は、容姿に関しては父方の色が濃く出るのだろうか。
 ――おお、ヒロ坊結構な男前捕まえたな。
 どんな反応をしろと。
 帰ってきたとき、雅はいなかった。ダイニングテーブルに、
 ――お買い物に行ってきます。小鶴(こつる)(どう)の練り切りを買って帰るので、お茶の準備をお願いします。 雅
 という書き置きがあった。
 小鶴堂は知っている。あそこの練り切りは好きだ。
 弘が、楽しみですね、と笑ったのは覚えている。
 そこまでしか覚えていない。
 弘と一緒に寝るのは既に珍しくもなくなっている。抵抗はない。
 でも、リビングに転がってしまうのははじめてだった。
 どういう経緯でこうなったのだろう。中途半端に身体を起こした八代の隣で眠っている弘に、起きる気配はまったくない。
 ――眼鏡をかけている。
 自分の顔に触れて確認してみたら、自分も眼鏡をかけていた。つまり、寝落ちをしてしまったということだろう。
 眼鏡はずれていない。たぶん無意識のうちに位置を直した。
「僕が移動したら弘さんを起こしてしまうと思うので――目は覚めましたから、結構です」
「そう?」
 はい、と応じると、雅は黒髪を揺らしてくすりと笑った。
「ひーちゃんなら気にしなくても大丈夫よ。この子一回寝入ったらちょっとやそっとじゃ起きないもの。いつもぐうぐう寝てるでしょ」
 言われて思い出し、思わず小さく笑ってしまう。
 雅の言うとおりだ。弘はちょっとやそっとでは起きない。夜明けにふと目覚めて身体を起こしても、あの狭い小さいベッドにぎゅうぎゅうになって眠っているというのにまったく動かない。無理のある範囲に収まって寝ているのだから、隣の人間が動けば多少なり気にしそうなものだが、弘は時間までしっかり寝る。その代わり、目覚まし時計が鳴った途端にぱっと起きて、その瞬間からフルスロットルで動き出す。寝ぼけていたことはない。
 弘のそんな寝方は別にいいし、問題ない。弘の寝顔を見ているのは好きだ。ふくふくしたほっぺたをつついたり(つま)んでみたり、耳朶(みみたぶ)を引っ張ってみたり、ぴよぴよした癖っ毛と指先で遊ぶのは楽しい。
 時折、むう、と難しい顔をして、んんん、と(うな)ったりするからおもしろい。
 (ほほ)をつついて遊んでいたとき、指を緩慢(かんまん)な動きの弘の手に握られたことがあった。珍しいと思ってそのままにしていたら、(くわ)えられたというか()みつかれて、危うく朝っぱらから驚愕の声を上げるところだった。そのまま持ち上げれば、(すっぽん)よろしくぶらんと釣り上げられそうな気がした。
 噛まれたといっても力は入っていなかったから、痛くはなかった。ただ、心臓が口から出るとは思った。彼女がどんな夢を見ていたのか謎だ。
 それでもそれは一度きりだし、完全に寝入った状態だから、かなり個性的ではあれ一種の寝相といえなくもない。
 だから八代にとっては、彼女の起き抜け第一声の方がよほど問題だった。
 丸くて上部に半球の鐘がついている、とんでもない音を発する昔ながらの目覚まし時計。
 鳴った瞬間鳴り止む。
 ジリリ、までいかない。ジリ、で止まる。さっきまでひとの指に食いつくほど寝ていたはずなのに、弘はまるで待っていたかのように
 ぱんっ
 と止める。で、
 すぱっ
 と起きる。タイムラグはない。
 ああ起きた、と思っていたら寝癖のついた髪で八代を見遣り、とびっきりの笑顔で、
 ――おはようございます、久我(くが)先輩。今日も大好きです。
 本当にやめてほしい。朝起きて第一声がそれか。(しん)から馬鹿なんじゃないだろうか。
 赤面しているのか不機嫌に顔が引き()っているのかよくわからない。毎日毎日、一緒に寝て起きた朝はいつもそう言われる。照れるという感覚は通り越した。
 ――おはよう。……今日も元気だね。
 (こた)えている時点で八代は既に少し疲れている。
 弘はまずベッドサイドのチェストに載せてある八代の眼鏡を手渡してくれて、それから自身の眼鏡をケースから出す。例のあのけったいな、梅干しの乗っかった山盛りごはんを盛られた(どんぶり)(はし)、たくあんまでが描かれている奇妙(きみょう)奇天烈(きてれつ)な柄のケースから。
 彼女の朝は眼鏡拭きを選ぶところからはじまるようなのだが、迷っていたことはない。しまってあるチェストの引き出しを開けた瞬間取り出す。選んでいるようには見えないが、選んでいるらしい。
 ――どこにどのものがあるかはわかりますよ。自分のものですから。
 だからといってあの瞬発力が出るものだろうか。
 そして、八代の眼鏡拭きもある。何故か。
 何故か、ということはない。用意してくれたのだ。わざわざ。
 お着替えタイムですよ、と言って、それはさすがに別室だ。助かる。左目のこともあるけれど、それを除いても身支度をしているところを見られるのは嫌いだ。
 弘は弘で雅から(しつ)けられているらしい。身繕(みづくろ)いはたとえ近しい間柄でも、特に男性には見せてはいけません。
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